ゴスパトリック (ノーサンブリア伯)
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| ゴスパトリック Gospatric | |
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在位期間 1067年–1068年 | |
| 先代 | オスルフ2世 |
| 次代 | ロバート・ド・コミン |
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在位期間 1069年–1072年 | |
| 先代 | ロバート・ド・コミン |
| 次代 | ウォルシオフ |
| 出生 | 不詳 |
| 死亡 | 1073年以降 |
| 父親 | マルドレッド |
| 母親 | エアルドギス |
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子女 ドルフィン ゴスパトリック2世 ウォルシオフ エセルレダ | |
ゴスパトリック(Gospatric、またはCospatric、カンブリア語で「聖パトリックの僕」という意味[1]、1073年以降没)とは、11世紀後半のスコットランド・イングランド国境付近に拠点を置いたイングランド貴族である。ノーサンブリア伯あるいはバーニシア伯を歴任し、最終的にはダンバー周辺に広大な所領を有することとなった。彼の男系子孫は後にダンバー伯(のちのマーチ伯)を継承し続け、1435年まで続いた。また1473年から現在に至るまでヒューム伯爵の系譜を保っている。
ダラムのシメオンによれば、ゴスパトリックは母エアルドギス(Ealdgyth)を通じて、ノーサンブリア伯ウートレッドとその三番目の妻(イングランド王エゼルレッド2世の娘エルフギフ(Ælfgifu))の孫であるとされる[2][3]。これは先行史料『ダラム包囲記』に従うものであり、ここではゴスパトリックの父がマルドレッド、すなわち「従士クリナン」(thegn Crínán)の子とされる。おそらくダンケルドのクリナンと同一人物であり、スコットランド王ダンカン1世の父であった可能性がある[4]。ただし、もしそうであってもマルドレッドがスコットランド王マルカム2世の娘ベソクの子であったかは確証がない。
『エドワード証聖王伝』には、エディス王妃の委嘱により、トスティ・ゴドウィンソン伯のローマ巡礼の逸話が記されている。イタリアで強盗団が彼の一行を襲い、伯を誘拐しようとした際、あるゴスパトリックが「その衣服の贅沢さと立派な風貌」のためにトスティ伯と誤認され、真の伯が逃げ延びるまで囮となったという。このゴスパトリックが同一人物か、あるいは同名の親族かは不明だが、彼が人質として同行していた可能性もある[5]。
北部の蹂躙
1066年、ヘイスティングズの戦いでハロルド・ゴドウィンソンを打ち破り自らイングランド王位に就いたウィリアム征服王は、1065年に主君とともに追放されていた故トスティ伯の支持者であるコプシ(Copsi)なる人物を、1067年春にバーニシア伯(Earl of Bernicia)に任命した。コプシはわずか5週間以内に殺害され、彼を殺したオスルフ2世(ウートレッド伯の孫でバーニシア伯位請求者の1人であった)が新たな伯となった。だがオスルフ伯もその年の秋に盗賊に殺害され、伯位の座に就いてから6か月も経たないうちに命を落とす結果となった[6]。この時点で、オスルフやウートレッドと血縁関係にあったと考えられるゴスパトリックは伯位を主張するもっともらしい資格を有していたため、巨額の金を差し出してバーニシア伯位を授与するようウィリアム王に申し出た。重税を課していた最中の王はこれを受け入れ、ゴスパトリックは晴れてバーニシア伯となった[7]。
1068年初頭、イングランド各地で蜂起が起こり、さらに外敵の侵攻も重なって、ウィリアム王は深刻な脅威に直面した。ゴスパトリックは、この反乱の指導者の一人として、ウェセックス王家家長エドガー・アシリング、マーシア伯エドウィン、その弟ノーサンブリア伯モーカーらとともにノルマン王権に対する反乱を推し進めた。しかし、この反乱はすぐに崩壊し、ウィリアムは北部の多くの土地所有者から土地を没収して、土地をノルマン人たちに与えた。その結果、ゴスパトリックは伯位をロバート・ド・コミンに奪われ、スコットランドに亡命することになった。用心深いヘリワードや向こう見ずのエアドリック(en:Eadric the Wild)といったアングロサクソン豪族らは依然として小規模な反乱を引き起こし続けたものの、この時点でのウィリアム王の支配はイングランド全域に基本的に安定化しつつあった[8]。
翌年、ゴスパトリックはエドガー・アシリングの指揮下で、デーン人、スコット人、イングランド人から成る侵攻軍に加わった。この軍は敗北したものの、ゴスパトリックはバンバラ城を拠点として征服王と和睦することに成功し、1072年まで干渉されることなく領地を保った[9]。この時期、ノーサンブリアで起こった壊滅的破壊行為は、北部の蹂躙として知られている。

亡命
アングロ=ノルマン系年代記作者によれば、1072年にウィリアム征服王はゴスパトリックからノーサンブリア伯位を剥奪し、代わりにシワードの息子であるウォルシオフを新たな伯に任じた[10]。
ゴスパトリックはスコットランドへ亡命し、その後まもなくフランドルへ向かった。スコットランドに戻ったとき、彼は従兄にあたるスコットランド王マルカム3世から「ダンバー城とその周辺の土地」およびマース地域を与えられた[11]。この、名を持たぬスコットランド支配下のバーニシア北部の伯領は、後にダンバー伯領として知られるようになった。
ホウデンのロジャーの年代記によれば、ゴスパトリックは亡命生活を始めてから間もなく、亡くなった
ニール・マクギガン(Neil McGuigan)は、ウォルシオフ伯に与えられたノーサンブリア伯領はタイン川を北限とする範囲であり、ゴスパトリックは1070年代後半まで、バンバラを拠点としてタイン川以北の領域を支配し続けていた可能性があると論じている[12]。
子女
ゴスパトリックには三人の息子と数人の娘がいた。息子のドルフィン、ウォルシオフ、およびゴスパトリック2世は『ダラム包囲記』やダラムのシメオンによって名が伝えられている[10]。一方で、1275年頃に土地訴訟に関わる代弁人を指導するための文書には、この三人の息子のうち、正嫡の婚姻から生まれたのはウォルシオフだけであり、彼がゴスパトリックの娘エセルレダ の同母兄弟であると記されている[13]。ほぼ同時期に作られた、内容が「ほぼ同一」の第二の文書には、オラデールのウォルセオフの三人の姉妹グンニルダ(Gunnilda)、マティラ(Matilla)、エスレダ(Ethreda)とその夫たち、さらにエスレダの息子ウィリアム・フィッツ・ダンカンの名が挙げられている[14]。
ゴスパトリックの子供たちは以下の通りである:
文芸における描写
ウォルター・スコットの『スコットランド辺境の吟遊詩』(1803年)には、ゴスパトリックが「処女性にこだわる残酷な花嫁探し」を行うバラッドが収録されている[17]。