ダヴィト5世 (ジョージア王)
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ダヴィトは1113年頃に誕生した。当時、ジョージアは「建設王」ダヴィト4世の治世であり、ダヴィトは王の長子デメトレ1世の長男であった。
父デメトレ1世は1125年に即位し、長男であるダヴィト5世はその継嗣と目されていた。しかし1140年代、デメトレ1世はダヴィト5世を廃嫡し、次男であるギオルギを王太子に指名した[3]。デメトレ1世とダヴィト5世が対立した理由は不明であるが、研究者の説によれば、ダヴィト5世自身の欠点、あるいはアブレティスゼ家やアニの地位を巡る問題が原因と考えられている[4]。
かつてデメトレ1世に対するクーデター未遂が起きた際、王の異母弟であり反乱の首謀者として担ぎ出されたヴァフタング王子を支持した貴族らは、デメトレ1世による前例のないダヴィト5世の廃嫡に反対し、アニがイスラム教徒の支配下に置かれることを容認した[4]。デメトレ1世が、捕虜とした隣国エルズルムの支配者サルトゥク2世の解放交渉を行った際、その実務にあたったヴァサク・アルツルニとその兄弟もまた、ダヴィト5世の積極的な支持者であった[4]。
ダヴィト5世は1150年頃にデメトレ1世に対してクーデターを試みたが、これは失敗に終わった。しかし1154年、再び起こしたクーデターで父を失脚させることに成功した。デメトレ1世は修道院に追放され、ダヴィト5世がジョージア王として即位した[3][4]。
即位後、ダヴィト5世はキルキシュ・アブレティスゼをアミルスパサラリ(軍最高司令官)に起用した。キルキシュは、1130年代にデメトレ1世への謀反の罪で処刑されたイヴァネ・アブレティスゼの息子であった。この抜擢は、軍の要職を代々担ってきた有力貴族オルベリ家のスムバト1世とイヴァネ2世を憤慨させた[5][6]。
ダヴィト5世は即位からわずか6か月後に急死した[7]。13世紀の歴史家ヴァルダン・アレヴェルツィによれば、ダヴィト5世はオルベリ家のスムバト1世とイヴァネ2世に毒殺されたとされる。オルベリ家はギオルギ王子との間で、ギオルギの即位後に一族をアミルスパサラリに留任させる合意を交わしていたとされる[6][8]。
慣例と法によれば、王位はダヴィト5世の幼い息子デムナが継承すべきであった。しかし、父デメトレ1世が復位して次男ギオルギを共同王として戴冠させ、自身はダヴィド・ガレジャ修道院に退いた。別の説では、デメトレ1世は既に死去しており、ギオルギが不法に王位を奪ったとも伝えられる[6]。一族の出身である歴史家ステパノス・オルベリャンはオルベリ家側の視点から記述を残しており、毒殺への関与を否定して一族の正当性を主張する一方で、ギオルギを厳しく非難している。ステパノスによれば、ギオルギは「デムナが成人に達するまでの期間限定の統治」を誓いながらそれを破ったのであり、オルベリ家はその誓いの証人として、正当な継承者であるデムナを擁立し1177年の反乱を主導したのだという[8]。
家族
ダヴィト5世の妻に関する記録は残されていない。ダヴィト5世には息子が1人いた。
- デムナ(1155年以前生 – 1178年頃没)