父は「建設王」として知られるジョージア王ダヴィト4世。母はダヴィト4世の2番目の妻で、キプチャクのハーン・オトロクの娘であるグランドゥフティとされる。グランドゥフティは異母兄デメトレ1世にとっても母親代わりとして振る舞い、ヴァフタングは兄と共に育てられた。
ジョージアの史料におけるヴァフタングの記述は誕生の事実に限定されており、その生涯に関する直接的な言及は乏しい。後世の歴史家は、1130年代初頭にデメトレ1世の王位を巡って発生し、鎮圧された反乱において、ヴァフタングが反乱側の中心人物として関与していた可能性を指摘している。
父ダヴィト4世による遺言書『ゲラティへのダヴィト建設王の遺言(グルジア語版)』には、デメトレ1世に対し、弟であるヴァフタングを養育し、彼に「能力」があることが証明されれば王位継承者とするよう記されている。しかし、当時のジョージアにおける王位継承は長子相続が慣行であった。そのため、現代の歴史学者の多くは、この一節をヴァフタング支持派が1130年代のクーデターを正当化するために後世に挿入した偽造であるとみなしている。
1130年頃、有力貴族イヴァネ・アブレティスゼがドマニシを拠点としてデメトレ1世に対する陰謀を企てた。この際、当時わずか12歳前後であったヴァフタングは反乱側の中心人物として担ぎ出された。しかし、デメトレ1世はこの反乱を受けて、ヴァフタングの王位継承資格を否定した。ヴァフタングを擁立しようとする貴族らの陰謀については、13世紀のアルメニアの歴史家ヴァルダン・アレヴェルツィ(アルメニア語版)による年代記にも記されている。ヴァルダンは反乱を起こした王子の名を直接特定してはいないが、デメトレ1世の暗殺を目的としたこの計画は、有力貴族イヴァネ・アブレティスゼとその息子キルキシュが主導したものとしている。
デメトレ1世は、イヴァネの父アブレットから事前に密告を受けたことで難を逃れ、反乱に鎮圧した。ヴァフタングは捕らえられ、刑罰として両目を潰され、投獄された。ヴァフタングはその直後の1138年に獄死したと伝えられている。