ダヴィト6世 (ジョージア王)
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ダヴィト6世(ジョージア語: დავით VI、ジョージア語ラテン翻字: Davit VI、1225年 – 1293年)は、バグラティオニ朝ジョージア王国のメペ(王)である。1246年から1259年まで、従兄のダヴィト7世とともに共同のメペであった。ダヴィト6世は1259年に独立を宣言し、ダヴィト1世の名で西ジョージア王国を統治した。一方、ダヴィト6世の従兄ダヴィト7世は、モンゴル支配下の東ジョージアにおいて、版図を削られたジョージア王国の統治を継続した。モンゴル語で「年少」を意味する「ナリン」を付して、ダヴィト・ナリン(ジョージア語: დავით ნარინი、ジョージア語ラテン翻字: Davit Narini)の呼び名でも知られる。
生涯
ダヴィト6世は1225年に、女王ルスダンの息子として誕生した。父親はセルジューク朝出身のギヤース・アッ=ディーンであった。1230年、ダヴィト6世は母ルスダンの共同統治者としてクタイシで戴冠した。ルスダンは、自身の死後に甥のダヴィト7世が王位を主張することを恐れた。そのため、ダヴィト7世を自身の娘婿であるセルジューク朝のスルタン・カイホスロー2世の宮廷に囚人として幽閉した。そして1243年、ルスダンは法定推定相続人としての正式な承認を得るために、自身の息子であるダヴィト6世をカラコルムにいるモンゴル帝国のハン・バトゥの宮廷に派遣した[1]。ルスダンは息子の帰還を待ちわびながら1245年に死去した。ダヴィト6世はカラコルムのモンゴル宮廷に3年間引き留められたが、その後1246年8月に従兄のダヴィト7世とともに、グユク・カンの即位式に出席することができた[1]。
ジョージアの貴族たちはダヴィト6世が消息を絶ったと信じていたため、2年後の1245年に、カイホスロー2世の死に伴って解放されたダヴィト7世をジョージアの国王として宣言していた。1246年、ダヴィト6世はモンゴルのグユク・カンによって、従兄であるダヴィト7世に対する下位の共同王として承認された[1]。ダヴィト6世「ナリン」(「年少」の意)およびダヴィト7世「ウル」(「年長」の意)として知られるようになったこれら従兄弟の二人は、帰国後の1247年から1248年にかけて、そして1259年まで共同でジョージアを統治した[1]。
1259年、ダヴィト6世はモンゴルの支配に対して反乱を起こした。もっとも、ダヴィト6世は同じジョージアの王であるダヴィト7世を、この反乱に巻き込むことはしなかった[2]。わずかな期間の流血を伴う戦闘の後、イルハン朝はすぐにこの反乱を鎮圧したが、ダヴィト6世は西ジョージアへと避難することに成功した[3]。西ジョージアで最大規模の都市の一つであるクタイシに到着すると、ダヴィト6世はリヒ山脈以西の領地の分離独立を宣言し、地元の貴族たちによって西ジョージア国王として宣言された[2]。
ダヴィト6世によって創設された王国には、黒海沿いの複数の港を支配する数多くの強力な公国が含まれていた。これには、バトゥミやポティの都市を内包するグリア、サメグレロ、アブハジアのサエリスタヴォ(公国)が含まれていた。北方において、西ジョージア王国はスヴァネティおよびラチャの公国を支配していた。それによって、王国はジョチ・ウルスに対する防壁としてコーカサス山脈を統制していた[4]。このような状況により、クタイシの新たな政府は西洋との重要な貿易路を維持することが可能となった。この貿易路は、とりわけアブハジアを拠点とするジェノヴァの商人やトレビゾンド帝国を経由するものであり、東ジョージアからのジョージア人の貴族や商人たちの大規模な移住を導いた[5]。
ダヴィト6世は、従兄のダヴィト7世が1261年に自らモンゴルに対して反乱を起こした際、彼を保護し王座を共有することさえやってのけた[6]。しかし、この合意は短命に終わった。2人の王は西ジョージアを保護するために協力し合うことができず、結果として1262年にダヴィト7世は東ジョージアのトビリシへと帰還することとなった[7]。このようにしてジョージアは2つに分裂し、両王は引き続きジョージアのメペ(王)の称号を保持し続けた。しかしながら、ダヴィト7世はフレグに降伏し、それによって東ジョージアは1262年にイルハン朝の名目上の属国となった[8]。

ダヴィト6世はジョチ・ウルスおよびエジプトのバフリー・マムルーク朝との間に友好的な関係を構築し、イルハン朝の攻撃を撃退した[9]。1269年、ダヴィト6世は、チャガタイのバラク・カンの親族であり、イルハン朝の支配者であるアバカ・ハンに対して反乱を起こしたテグデルを保護した。テグデルの軍勢がジョージアの住民を恐怖に陥れ始めたとき、ダヴィト6世はアバカの将軍であるシレムン・ノヤンの側に味方した。このような協力にもかかわらず、アバカはラチャ公カハベル・カハベリスゼの助けを借りてダヴィト6世を打倒しようと試みた。アバカは1270年代にイメレティに対して2度の遠征軍を派遣したが、ダヴィト6世は自らの独立を維持することに成功した。
1282年、トレビゾンド帝国から皇帝ヨハネス2世がコンスタンティノープルに滞在し不在であった間に、ダヴィト6世はトレビゾンドにおけるジョージアの影響力の回復を試みた。ダヴィト6世は1282年4月にトレビゾンド帝国に侵攻し、歴史的なチャネティを含む多くの属州を占領した。そして、ダヴィト6世は首都を包囲した[10][5]。ダヴィト6世は都市の占領には失敗したものの、ジョージア軍は帝国の東部地域を併合することに成功した[11][10]。
1284年、ダヴィト6世はヨハネス2世の異母姉であるテオドラを支援した。テオドラは、マヌエル1世とその2番目の妻であるルスダンの娘であり、ダヴィト6世の姪であった可能性もある[10]。ダヴィト6世は、テオドラがその異母弟ヨハネス2世から王冠を奪うことを援助した[10]。テオドラは数か月間のみ女帝となったが、すぐに1285年にヨハネス2世が帝国に帰還して権力を奪還し、女王テオドラはジョージアへと避難した[12]。
ダヴィト6世は1293年にクタイシで崩御した。ダヴィト6世の後継者には、息子のコンスタンティネ1世が就いた。ダヴィト6世は、ゲラティの生神女誕生大聖堂における聖アンデレのエウクテリオン(礼拝堂)内、教会の南口の東側に埋葬されている[13]。
家族

ダヴィト6世は最初にタマル・アマネリスゼと結婚した。ダヴィト6世とタマルの子供たちは以下の通りである。
- ヴァフタング2世(1292年没) - ジョージア王(在位: 1289年–1292年)
- コンスタンティネ1世(1327年没) - 西ジョージア王(在位: 1293年–1327年)
- ミケリ(1329年没) - 西ジョージア王(在位: 1327年–1329年)
1254年に、ダヴィト6世はビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスの娘であるテオドラと結婚した。ダヴィト6世とテオドラとの間には一人の子供が生まれた[9]。
- アレクサンドレ