アバカ
イルハン朝第2代ハン (1234-1282)
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生涯
出生
即位以前
1253年、モンケ・カアンにより、父フレグが西方遠征軍司令に任じられると、アバカは弟ヨシムトらとともにこの西方遠征に従軍した[2]。
1264年、アバカはフレグ・ハンからイラーク、マーザンダラーン、ジャイフーン(アム)川に至るホラーサーン各州の統治を委ねられた[3]。弟のヨシムトはアッラーン、アーザルバーイジャーンの統治を委ねられた[3]。
即位

1265年2月8日、フレグ・ハンがジャガトゥ河畔の冬営地において崩御したため[4]、マーザンダラーン地方において冬営していたアバカに急使が派遣されると、慣例に従って王宮から四方に達するすべての道路が封鎖された[5]。その1週間後、ヨシムトは駐屯地のデルベント国境から王宮に参内し、自分に対する諸将の意向を探ったが、後継者となる希望が全くないのを知って引き返した[5]。アバカは3月9日、ジャガトゥの大オルドに到着すると、親族の諸王侯と将軍たちに出迎えられ、諸オルドの総帥であったノヤン・イルゲイによって喪食と喪酒を捧げられ、政務とフレグ臨終の様子について聞かされた[5]。アバカがフレグの霊魂に対する礼拝をおこなったのち、ハトゥンたち、親族の諸王侯および諸将(イルゲイ、スウンジャク、スウンタイ、アバタイ、サマガル、シクトル、アルグン・アカら)は参集して、アバカを新たなハンに立てようと考え、シクトルとスウンジャクは「先君は長子アバカを後嗣に指名していました」と証言した[1]。アバカは慣例に従ってハン位につくことを拒否し、弟たちのいずれかに譲ろうとした[1]。しかし、弟たちはそれを固辞してアバカの即位を承認した[1]。アバカは伯父であるクビライ・カアンの命令なしにはハン位に即くことはできないと述べたが、列席者のすべての者が「先代フレグの指名を受け、国家の慣習・法令を親族諸王侯の誰よりもよく知っているアバカ以外にいない!」と叫んだため、6月19日にバラーハーン地方のチャガン・ナウル[注釈 1]において即位式を挙げた[1]。時にアバカは31歳であった[1]。親族の諸王侯はそれぞれ順番に帯をうなじの上にさしかかげて進み出て、太陽に向かって7回跪いて拝した[1]。宴会は数日間続き、会食者は酒宴・音楽に興じ、宴に侍る多数の美女の魅力のとりことなった[1]。
アバカの初政
アバカは即位したものの、クビライ・カアンの勅命が下るまで玉座には座らず、床几にしか座らなかった[6]。彼はまず、フレグの発した一切の法令を追認し、ついでウルスの行政権を割り当てた[6]。デルベントからアラタクにいたる辺境諸州の防衛を弟のヨシムトに委ね、弟のトブシンにはホラーサーン、マーザンダラーン両州を管轄させ、ノヤン・イルゲイの子トグ・ビティクチと、ノヤン・スウンジャクの弟トダンにルームの指揮権を与え、ドラバイにはディヤールバクルとディヤール・ラビーアを管轄させ、チョルマグンの子シレムンにはグルジア王国を、バグダード市とファールス地方をスウンジャクにそれぞれ管轄させることにしたが、スウンジャクの副官として宰相アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーが任命された[7]。アバカは改めてグルジア国王ダヴィト6世、クルト朝のシャムスッディーン・クルト、サルグル朝の女王ウンス・ハトゥンらの地位を追認した[8]。元ペルシア総督のアルグン・アカには公租の請負全権を保有させ、サーヒブ・バハー・ウッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニーの子シャムスッディーン・ジュヴァイニーは主席宰相(サーヒブ・ディーワーン)の職務に留任させた[8]。また、宮廷にいたホージャ・ナスィールッディーン・トゥースィーの門下の百余人の学者に恩寵を施した[8]。アバカはタブリーズ市をイルハン朝の首都にしようと欲したが、自分の夏営地としてアラタクとスィヤー・クー[注釈 2]を、冬営地としてアッラーンとバグダードまたはジャガトゥを選んだ[8]。
ビザンツ帝国との婚姻
以前、フレグ・ハンがビザンツ帝国(東ローマ帝国)の王女に求婚していたため、ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスは自分の庶出の娘たちのひとりマリア[注釈 3]を与えるべく、パントクラトル修道院長テオドシウス・ド・ヴィルハルドゥインと、アカイア及びペロポンネスス王の弟に案内させてマリアを派遣した[9]。マリアはカイサリア市に到着するや、フレグ・ハン崩御の知らせに接したが、そのままイルハン朝の宮廷に赴き、アバカと結婚した[9]。モンゴル人は彼女を「デスピナ」[注釈 4]と呼んだ[9]。
ノガイの侵攻

アバカは1265年の冬をマーザンダラーンで過ごし、翌年(1266年)春にタブリーズ市へ赴いた[10]。しばらくしてから、ジョチ・ウルスのノガイがデルベント関を越えてイルハン朝領に侵入してきたという報を受けた[10]。王侯ヨシムトはクル川を渡り、アクスゥ水の付近で敵に遭遇した[10]。戦闘は血みどろもので、勝敗は長らく決しなかった[10]。この戦闘でノガイは目に傷を負い、彼の軍は算を乱してシルワーン地方へ退却した[10]。この成功に乗じてアバカも自らクル川を渡ったが、ベルケ・ハンが強力な一軍を率いて進軍していることを聞いて退却し、すべての橋を切断させ、川の南岸に陣取った[10]。両軍は川を挟んで互いに弓を発射しながら、二週間相対した[10]。ついにベルケ・ハンはティフリス市の付近で渡河するためにクル川を遡ったが、この行軍中に死去した[10]。これによりベルケの軍は退却し、彼の遺骸をサライ市に埋葬した[10]。この戦いに勝利したアバカはクル川の対岸のダラン・ナウルからダシュト・カルダマーンまでの間に濠を沿わせた城壁を構築させ、モンゴルならびにイスラム教徒軍による警戒線を配置した[10]。アバカは1266年の冬をマーザンダラーンとジュルジャーンにおいて過ごすべく出発した[10]。
モンゴル本土よりフレグ家の一部が到着する
1267年、アバカの母イェスンジン・ハトゥンがフレグの別の寡婦クトイ・ハトゥンとクトイ・ハトゥンの2子であるテクシン、タクーダールならびにジュムクルの諸子を連れてモンゴル本土からイルハン朝へ到着したので、アバカはこれらを出迎えにマーザンダラーン州のカブード・ジャーマまで赴いた[11]。途中、ジュムクルがジャイフーン(アム)川を渡らないうちに亡くなったため、その2子ジュシカブとキンシュウがアバカと面会した[11]。アバカはクトイ・ハトゥンに采邑としてマイヤーファーリキーン地方を与え、フレグのもうひとりの寡婦であるオルジェイ・ハトゥンにはディヤールバクルとジャズィーラ地方の一部を与え、その他の妃妾とその諸子にも領地を与えた[11]。
マムルーク朝のキリキア侵攻

1265年、1266年と、アバカが東方の脅威を受けていたため、西方の防備が手薄になっていたのをついて、マムルーク朝のスルターン・バイバルスはイルハン朝支配下で十字軍の領するカイサリア、アルスーフ、サファード、ヤッファ、シャキーフの諸都市と、メルハト、ハイファ、ジャレバ、アルカ、カリアトの諸城堡を奪った[12]。バイバルスはつづけてキリキア・アルメニア王国にも侵攻し、国王ヘトゥム1世に対してマムルーク朝に朝貢し、シリアとの交通を開放して穀物の輸出を許可するよう勧告した[12]。ヘトゥム1世が宗主国であるイルハン朝を畏れて満足する返答をしなかったため、1266年8月8日、バイバルスはハマーの王侯アル=マンスールとその配下イッズッディーン・アイガーン、サイフッディーン・カラーウーン両将軍の一団をキリキアへ向けて派遣した[12]。ヘトゥム1世は自らルームに駐屯しているモンゴルの軍隊の司令官に救援を乞うたが、この司令官はアバカ・ハンの特命がなければ援助を与えることはできないと言明した[13]。そこでヘトゥム1世は1人の将校をアバカの宮廷に派遣し、その帰還を待った[13]。しかし、その間にマムルーク朝軍はキリキアに侵入し、王子レヴォンを攻撃して捕らえ、アルメニア軍を壊滅させた[13]。その後マムルーク朝軍はその領内で掠奪をおこない、男子は殺され、婦女子は捕虜となり、城塞は焼き払われた[14]。ヘトゥム1世はアバカ・ハンに何度も援助を要請したものの、アバカは東方の対応におわれてそれどころではなかった[15]。結局ヘトゥム1世はマムルーク朝との講和条約にすべて同意し、翌年(1267年)6月にアンティオキアで調印された休戦条約によってビヘスナ、ダルバサーク、マルザバーン、ラーナン、アル=ルーブ、シーフ・アル=ハディードの諸要塞を返還すること、アミールの赤毛のソンコルを釈放することを約束した[16]。これによって捕虜になっていた者たちが釈放され、王子レヴォンも帰還した[16]。
1269年、ヘトゥム1世はバグダードに駐留していたアバカ・ハンの宮廷へ赴き、自分が老齢で持病が多いため、キリキア・アルメニア王位を王子レヴォンに譲る許可を得たため、帰国後レヴォンに譲位した[17]。レヴォンは即位するとさっそくアバカ・ハンの宮廷に赴き、あらためてキリキア・アルメニア国王の冊封を受けた[17]。同じ年、アバカはマムルーク朝へ使節団を派遣し、その書簡でクトゥーズ暗殺について非難し、エジプトに侵攻すると脅したが、実行に移すことはなかった[18]。
チャガタイ・ウルスとの戦争

アバカがキリキア・アルメニア王国の救援ができなかった理由は東方からチャガタイ・ウルス軍が攻めてきていたためであった[18]。1265年以降、中央アジアの情勢がめまぐるしく変化し、オゴデイ家のカイドゥとチャガタイ家のバラク・ハンとの間で戦争が起きており、さらにそこへジョチ・ウルスのモンケ・テムル・ハンがカイドゥ側につき、激しく争った[19]。その結果、三者は1269年の春にタラス及びガンジャクの草原に参集して講和クリルタイを開催し(タラス会盟)、バラクはトランスオクシアナの3分の2を領有すること、残りの3分の1はモンケ・テムルとカイドゥが領有することが決定したが[20]、バラクが自分の牧地が足りないと不平を漏らしたため、ジャイフーン(アム)川を越えてイルハン朝領のホラーサーンを征服すればいいとなり、意見が一致した[21]。侵攻に先立ち、バラクの財務長官であるマスウード・ベクがアバカ・ハンのもとへ派遣され、イルハン朝内にあるバラクとカイドゥの采邑の歳入帳簿を手に入れ、侵攻時に必要な情報を探らせた[22]。そうとも知らないアバカは宰相のシャムスッディーンとともにマスウード・ベクを出迎え、将軍よりも上座に座らせるなど丁重に対応した[23]。アバカはマスウード・ベクが要求した計算書を1週間以内に用意させたが、それを受け取ったマスウード・ベクがすぐに出発し、その24時間後にチャガタイ・ウルス軍がジャイフーン川対岸に現れたことによってマスウード・ベクが偵察に来ていたことを覚った[23]。アバカはすぐにマスウード・ベクを追跡させたが間に合わず、ジャイフーン川を渡河した後だった[23]。
1270年、カイドゥとバラクの軍隊はジャイフーン川を渡り、ホラーサーンに侵攻した[24]。バラクはアバカの弟トブシンの軍隊と交戦して退却させ、ホラーサーンの大部分を占領した[24]。5月19日、バラクはタールカーン市に幕営を置き、ニーシャープール市を掠奪してその日のうちに撤退した[24]。続いてクルト朝のヘラート市をも掠奪しようとしたが、クトルグ・ティムールに諫められ、クルト朝のシャムスッディーン1世にはホラーサーン全域の支配権を与える代わりにカイドゥ・バラク軍に帰順することに同意させた[24]。アバカはクーミス州に到着すると、トブシン、アルグン・アカ、キルマーン・カラヒタイ朝のスルターン・ハッジャージュらと会見し、トゥース市にて金銭を出して軍隊を激励した[25]。その後バードギース地方でバラクにガズナ地方の割譲を条件に講和を持ち掛けたが、バラクらは交戦することを選んだ[25]。アバカはヘラート市がバラクらに食糧や物資を提供したことに怒り、ヘラート市を徹底的に掠奪するよう命令を下したが、周りの諫めによって断念した[26]。あるとき将軍トグズはアバカから戦場を選定する任務をうけ、山地に接し、モンゴル人からカラ・スゥと呼ばれる川が流れる広い平原を選んだ[26]。そのときトグズは間諜の疑いのある3人を捕らえ、アバカに差し出した[26]。アバカは天幕の柱に3人を縛り付けて拷問して自白させると、やはりバラクの間諜だったので、これを利用して敵を欺く策を思いついた[26]。
カラ・スゥ平原の戦い
ある夜、アバカらは2時過ぎまで酒宴をひらいて3人の間諜のいる中、バラクについて話をしていた[27]。そこへ急使がやってきて息を切らしながらジョチ・ウルス軍がデルベントを越えて首都タブリーズに進軍しているという情報を伝えてきた[27]。この知らせに諸将は茫然自失となり、アバカはヘラートを救うために自分のオルドを敵の手に渡す結果になったことを後悔し、すぐに引き返してタブリーズ救援に向かうと決めた[27]。太鼓が鳴り響くとともにアバカ軍は帳舎と輜重を棄ててマーザンダラーンへ進軍し、その際にアバカは3人の間諜を殺害するよう命じたが、わざと1人を逃がすようにした[27]。その1人はすぐさまバラクのもとへ逃げ帰り、ことの一部始終を伝え、天幕や輜重がそのまま放置されていることも伝えた[27]。この話を鵜吞みにしたバラクは翌日すぐにアバカ軍の去った幕営をみつけると、歓喜の声を上げ、輜重を奪い合った[27]。バラク軍はその日は終日宴を催して歓楽と酒色に明け暮れた[27]。翌日になり、バラクは平原がアバカの軍隊で満ち溢れているのに気づき、あわててその軍を戦闘陣形に配置した[28]。実はデルベントからジョチ・ウルス軍が南下してきた話は嘘であり、いったん退却したと見せかけてバラク軍をおびき寄せる罠であった[28]。アバカは右翼の指揮を弟トブシンに委ね、ノヤン・サマガルをその副官とし、左翼の指揮を王侯ヨシムトに委ね、彼の下にスナタイ、シクトル・ノヤン、ボロルタイ、アブドゥッラー・アカ、アルグン・アカの諸将を配した[28]。アルグン・アカの率いる部隊のなかにはカラヒタイ朝のスルターン・ハッジャージュと大ルルのアタベク・ユースフ・シャー1世の率いる軍隊もいた[28]。ノヤン・アバタイは中軍(コル)を指揮していた[28]。7月22日、戦闘が始まるとすぐにバラク軍の将軍マルガーウルは勇敢に戦って矢に射抜かれて死んだ[29]。これによって志気を下げまいと将軍ジャライルタイは左翼に襲い掛かり、これを打ち破って潰走させ、ヘラート市から4リュー離れたプーシャングまで追跡した[29]。アバカの中軍と右翼は頑強に持ちこたえ、ヨシムトは左翼の敗残兵を集結させた[29]。ジャライルタイの軍隊は追跡の最中混乱し、その隊列を整えることができずそのまま退却した[29]。バラクの軍はなおも優勢であったが、アバカ軍の90歳を越える老将ノヤン・スナタイの激励によってアバカ軍の士気が上がり、バラクの戦列を突破してその軍を潰走させた[29]。バラク軍は算を乱してジャイフーン川を渡って退却し、わずか5千人でブハーラ市に到着した[30]。バラクは逃げる途中に落馬したため、半身麻痺になり、籠で移動した[30]。
アバカ暗殺未遂事件
アバカは勝利の後、王侯トブシンに一部隊を与えてホラーサーンに駐屯させ、アーザルバーイジャーンへの帰途についた[31]。アバカがダイラムの辺境を通り過ぎていた時、不意にダイラム人の一部隊の襲撃を受けた[31]。大ルルのアタベク・ユースフシャー1世は馬を降りて彼らにとびかかり、数人を殺してアバカを救った[31]。アバカは彼の功績を讃えてフーズィスターンとルル辺境地方の三か所を封地として授与した[31]。
クビライから冊封を受ける
1270年10月18日、アバカはマラーガ市に到着し、11月6日にジャガトゥにある彼のオルドに到着した[32]。アバカはこの地でクビライ・カアンの使節団と接見し、正式にイルハン朝のハン位と王冠、封冊の衣袍、封冊書を授与された[32]。これによってアバカはあらためてイルハンの即位式と宴会をおこなった[32]。同じころ、ジョチ・ウルスのモンケ・テムル・ハンからの使節も来訪し、バラクに対しての勝利を祝い、灰鷹、はやぶさ、海東青などを献上した[32]。
狩猟中の負傷
1270年10月11日、アバカはジャガトゥの付近で狩猟をしていた際に、獰猛な野牛の角で頸部を負傷した[33]。出血が多量だったので、弓の弦で強く縛って止血したが、腫物が出てきて非常に苦痛を与えた[33]。アバカの医師たちは誰もこれを切開しようとはしなかったが、天文学者のナスィールッディーン・トゥースィーは「切開しても危険ではない」と説得したため、手術の末、痛みは和らいだ[33]。
イルハン天文表
1272年、マラーガの天文台でなされた観測に基づいてナスィールッディーン・トゥースィーは天文表を作成し、これを『ズイージュ=イ・イルハーニー(Zīj-i Īlkhānī)』(イルハン天文表)と題してアバカ・ハンに献呈した[34]。
ホラズムとトランスオクシアナを掠奪
先の戦いで敗れたバラクはカイドゥによって毒殺されたため、バラクの4子はアルグの2子とともにカイドゥと交戦し、トランスオクシアナはふたたび荒廃した[33]。これを好機と見た宰相のシャムスッディーン・ジュヴァイニーはアバカ・ハンにマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)に攻め込むべきであると進言した[33]。1272年、アバカはこれに従い、ニクペイ・バハードル、ジャルドゥ、トルクメン人のアクベグの指揮する一団をブハーラに向けて進軍させ、ホラズムへはチン・テムルの2子ユースフとカルガダイ、チュルガダイおよびイラ・ブカの指揮する第二部隊を派遣した[35]。チン・テムルの両子はホラズム地方のウルゲンチ、ヒヴァ、カラクシュを掠奪し、マスウード・ベクは逃走、ブハーラ、サマルカンドの大部分は移住した[35]。
1273年1月29日、ニクペイはブハーラ市に入城し、この地で七日間虐殺、掠奪、放火をおこなった[35]。マスウード・ベクが建立し、1万人の学生がいた学林は焼き払われた[35]。
アルグン・アカとナスィールッディーン・トゥースィーの死去
1273年7月6日にはイラン・ホラーサーン総督として辣腕を振るったアルグン・アカが、翌1274年6月24日には大学者ナスィールッディーン・トゥースィーが歿した。
シリア侵攻

マムルーク朝に占領された十字軍国家のキリスト教徒たちはアバカ・ハンに強く懇願したため、1271年にアバカはルームの軍隊と将軍サマガルのモンゴル軍一万、ルーム・セルジューク朝の宰相(パルワーナ)の指揮する軍隊とをシリアへ派遣した[36]。バイジュウの子アマルはモンゴル軍1500人の前衛を率いてアインターブ街道を経てアレッポ地方に侵入し、ハリームとアンティオキア間に幕営していたトルクメンの一部族を奇襲してなぎ倒した[36]。マムルーク朝のアレッポの駐留軍はハマー方面へ退却した[36]。警報はダマスクス市まで広がり、その住民の多くはエジプトへ向けて避難した[36]。3月、ダマスクスにいたスルターン・バイバルスはサマガルとパルワーナの使節と会い、講和をするための使者をよこすよう要求されたため、5月にその使者をサマガルらに派遣した[37]。サマガルらはバイバルスからの贈り物を受け取り、パルワーナはその使者と共にアバカの宮廷へ赴いた[38]。そこでバイバルスの使者は贈り物を献上し、自分の君主はジョチ・ウルスのモンケ・テムル・ハンとの使節の往来があり、南からイルハン朝を攻めるよう要求されていることと、モンケ・テムル・ハンは北からイルハン朝を攻めようとしていることを漏らした[38]。この話を聞いたアバカは甚だしく動揺した[38]。
1271年10月24日、スルターン・バイバルスは一将校をカイロに派遣し、将軍ベイセリ率いる3000騎を呼んだ[36]。11月、到着したベイセリとともにバイバルスはアレッポへ進軍したが、すでにモンゴル軍は撤退していた[36]。
1272年9月、アバカはダマスクスにいるバイバルスに使節を派遣し、スルターン自らあるいはそれに準ずる者がアバカの宮廷に来て講和を議してほしいと伝えた[38]。これに対しバイバルスは「講和を欲するならアバカ自らもこちらに来ることができるはずだ」と返答した[38]。10月4日、バイバルスはモンゴル軍がアル=ビーラ要塞を包囲襲撃していることを知り、ダマスクスの軍隊を率いて出発した[39]。ユーフラテス川を渡り、12月アル=ビーラ市に到着すると、モンゴル部隊が投石機と食糧を破棄して退却したというのを聞いた[39]。
アブルスターンの戦闘
1277年4月、スルターン・バイバルスはアレッポを出発し、前衛軍として赤毛のソンクルを派遣して3千人のモンゴル軍を潰走させた[40]。バイバルスはモンゴルとルームのテュルク人との混成軍が集結していたジャイハーン河畔へ向かって進み、一つの山脈を越えるとアブルスターン平原に敵軍が陣を張っているのを見つけた[40]。そこにはルームに駐屯する3人のトゥメン(万戸長)であるノヤン・イルゲイの子トグ、その弟ウルクト、スウンジャクの弟トダンがいた[40]。極寒の中の4月16日、モンゴル軍の左翼はバイバルスの旗が翻っている中軍に突撃し、右翼の方へ押しやった[41]。バイバルスはその第一線部隊を挙げて突撃し、モンゴル軍は下馬して雨のように矢を浴びせた[41]。バイバルスは聖戦で死ぬことを賛美して志気を鼓舞したので、モンゴル軍の必死の勇気もこれに対抗できず、マムルーク朝軍によって撃破された[41]。モンゴルの将軍トグとトダンは殺され、従軍していたグルジア兵も二千人の死者を出した[41]。バイバルスはモンゴルの捕虜を連れてきて、上級将校以外の者をすべて殺害した[41]。4月23日、バイバルスはカイサリア市に入城すると、盛大にもてなされ、セルジューク朝スルターンと同等の扱いを受けた[42]。バイバルスはその後ダマスクスに帰還すると、6月8日に死去した[43]。
7月、アバカ・ハンはルームに到着すると、損失したモンゴル軍をいたく悲しみ、アブルスターンの戦場を眺めていると、ルーム人とエジプト人の戦死者が少ないのを見て激怒し、数人のルームの将軍を捕らえて殺した[44]。さらにアバカはマムルーク朝軍がどれくらいの兵力だったのかを計測させた後、その軍隊をカイサリア市とエルゼルム市との間に散らばらせ、放火と虐殺をおこない20万人以上を殺害した[45]。モンゴル軍はキリスト教徒以外の法官(カーディー)や法学博士すらも殺害したため、さすがの宰相のシャムスッディーン・ジュヴァイニーも嘆願してアバカの殺戮を止めさせた[46]。
パルワーナを処刑
アバカはアラタクの宮殿に帰るやいなや、パルワーナ(ムイーン・ウッディーン・スライマーン)を諸将の会議の席に呼び出し、アブルスターンの戦闘で敵前逃亡をしたこと、マムルーク朝軍の侵入の報告が遅れたこと、アブルスターンの敗北の後すぐにアバカのもとへ赴かなかったこと、で有罪となり、投獄された[47]。ちょうどエジプトに派遣していた使者が帰国すると「今回のマムルーク朝の遠征はパルワーナの誘いによるもので、バイバルスを騙してルーム・セルジューク朝をバイバルスに手渡すどころか逃走した」と述べたため、1277年8月2日にアバカはパルワーナを処刑した[48]。
シャムスッディーン・ジュヴァイニーへの疑い
ヤズドのアタベグの元宰相であったサフィー・アル=ムルクの子マジュド・アル=ムルクという者がおり、彼は最初イスファハーンの長官ホージャ・バハー・ウッディーンに仕え、その後その父で宰相のシャムスッディーン・ジュヴァイニーに仕えるようになった[49]。シャムスッディーン・ジュヴァイニーは彼にグルジアの戸籍調査を委託したが、信頼していなかったため、やがて無視するようになった[49]。マジュド・アル=ムルクはシャムスッディーン・ジュヴァイニーを陥れることを計画し、数人のモンゴル貴族に近づいて好意をつかもうと努めた[49]。マジュド・アル=ムルクはある日イスゥ・ブカ・グルゲンに、宰相の弟でバグダードの長官アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの代理であるマジュドゥッディーン・アシールがジュヴァイニー兄弟の名でエジプト人と内通しており、バグダードをマムルーク朝に渡そうとしていると嘘をついた[49]。イスゥ・ブカ・グルゲンからこのことを聞いたアバカはアシールを捕らえて500回の棒刑を科して尋問したが、何も自白しなかった[49]。シャムスッディーン・ジュヴァイニーはマジュド・アル=ムルクを危険と判断し、スィヴァース市の長官に任命し、1バーリシュの黄金とルームの歳入に対する1万ディーナールの徴税請負権を与えた[50]。しかし、マジュド・アル=ムルクはジュヴァイニー兄弟に対し、なおも憎しみを抱いたままであった[50]。

および彼に抱き上げられている孫の幼児ガザン。
1279年3月、アバカはタブリーズ市を出発してホラーサーン州に向かった[51]。息子のアルグンがアバカに会いにカズヴィーン市に来たので、マジュド・アル=ムルクはアルグンの宮廷官を通じてアルグンにお目通りすることに成功した[51]。そこでマジュドはアルグンに宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーがマムルーク朝と内通しており、その弟アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーも謀反を企んでいると嘘をついた[52]。アルグンはこの話を父アバカにもっていくと、アバカは内緒にするよう言った[52]。アバカがシャルーヤーズに滞在中、マジュド・アル=ムルクはシャムスッディーン・ジュヴァイニーの政敵である将軍タガチャルとサドルッディーン・ザンジャーニーを介して、浴室にいたアバカにうまく謁見することができた[53]。マジュド・アル=ムルクは廷臣のような優雅な物腰でアルグンに言ったように同様の話をし、シャムスッディーンは宰相就任以来、ハン国の歳入を正確に報告したことがないこと、ハン国を自分の領地にようにみなしていること、彼の弟アラーウッディーン・アターマリクはイラークの行政で国税総額以外に600トゥメンを徴収し、公共の費用や軍隊の経費にも充てなかったと述べた[53]。この告発はアバカの心を動かし、マジュド・アル=ムルクを手厚く待遇し、さらに1杯の酒を賜い、御衣のなかの一襲を着せてやった[54]。アバカが行政の一般問題を出したところ、彼の返答は非常に満足のいくものであったため、アバカは彼を財務の監査長官に任命し、収入が支出より超過していることを証明できるように直近数年間の会計報告を検査するよう命じた[54]。彼を任命した勅書に、軍隊の司令官、ハトゥン、親族の王侯であれ、いかなる人間もこの任務の完遂を妨害することが禁止され、アバカは彼に虎符[注釈 5]を下付した[54]。同時にアバカはシャムスッディーン・ジュヴァイニーの徴税代官たちに帳簿を携えて出頭するよう命じた[54]。驚いたシャムスッディーンは宮廷へ赴き、オルジェイ・ハトゥンに庇護を求め、ハトゥンは機会を見つけて彼のためにとりなした[54]。シャムスッディーンがアバカの面前に現れるやいなや、アバカは興奮しながら彼を叱咤した[54]。シャムスッディーンは敵の中傷を言うことなくただアバカへの忠誠を述べた[54]。これにアバカは怒りを静め、再び恩寵をとりもどし、徴税代官の命令を取り消した[55]。マジュド・アル=ムルクはシャムスッディーン・ジュヴァイニーが恩寵を取り戻したことに失望してアバカに訴えたが、アバカはタガチャルのもとにいるよう命じた[55]。
1280年の春、マジュド・アル=ムルクはその後も陰謀を企て、突然イルハン朝の行政長官(ムシリフ)に任命され、シャムスッディーンと協同して政務をとることになった[56]。アバカはマラーガ市の仏教寺院において集まった親族の王侯とハトゥンたちの前で、マジュド・アル=ムルク任命の勅書を朗読さえした[56]。アバカは彼に行政・財政・自分の宝蔵と厩舎に関する一切の事務を検査し、彼の部下が事務を監督できるように権限を与えたため、人々の尊敬の的となった[56]。マジュド・アル=ムルクは諸州に課税の割り当てと収納に協力する任務を託された自分の代官を配置した[56]。財務庁(ディーワーン)から発布されるすべての謄本には、右側に宰相の署名と官印が、左側にマジュド・アル=ムルクの署名と官印がなされるようになった[56]。
アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーに対する追及
1281年7月、シャムスッディーン・ジュヴァイニーの弟アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーはアバカに伺候するため、バグダードから入京した[57]。アラーウッディーンはその管轄であるイラークの1年間の課税にあたる大量の黄金をアバカに手渡し、その年の収入の増加分に由来するもう1年分の黄金を献上した[57]。そこでマジュド・アル=ムルクは意見を述べるに「アラーウッディーンがイラーク・アラビー州とフーズィスターン州の徴税請負全権を許可されてより12年、彼は毎年、正規の納付額以外に20トゥメンの黄金を徴収し、この黄金を他の不正取得財産と一緒に隠していた」と言った[57]。宰相のシャムスッディーンはかねてから恩恵を施してきた自分の部下たちがこの意見を跳ね返すものだと思っていたが、彼らすらもアラーウッディーンに対する非難が真実であるかのように偽証した[57]。アラーウッディーンが弁明するには、親族の諸王侯、ハトゥン、将軍たちによって発行された歳入担保の約束手形にせよ、委員と使者たちに対する給養にせよ、君主の恩賜物にせよ、このような毎年必要なあらゆる特別支出のために、歳入の超過分から指定された額を集めることは不可能であったこと、これらすべての出費さえ通常歳入に打撃を与えていたこと、しかし、前年度の歳入に生じた不足分にもかかわらず、自分は自分の負債額を宮廷へ完納したこと、彼はこのことを非常な善意をもって取り扱ったこと、さらに本年は運が自分にとって不利であったことを見て、もっと多くを納入しようと欲していたこと、そして自分の敵の攻撃に立ち向かうために、最近2年間に特別支出が増加したにもかからわず、実際には存在していなかった収入超過額を献上したこと。自分は納税者の苦痛を軽減するために自分自身の地所を国庫へ引き渡さざるを得なかったこと、国庫が金を必要とするとき、その金がないと答えて計算書の提出を渋ることはできないと知っていたことなどを答えた[58]。これにマジュド・アル=ムルクはアラーウッディーンがちゃんとやりくりしていたことを証明するのではないかと恐れて計画を変えることにし、別の件で立件しようとしたが、アバカはアラーウッディーンの証言が正しいということを覚って彼をバグダードに帰らせた[58]。9月、アバカはバグダードで冬を過ごすためにイルビル、モースルへの道を通った[59]。アバカはアラーウッディーンを先に出発させて駅站と食糧の準備をさせた[59]。この時、マジュド・アル=ムルクは1270年~1271年に支払うべきであった250トゥメンをアラーウッディーンが滞納していることをアバカに告発した[59]。これにアバカはアラーウッディーンに問い詰めたところ、兄であるシャムスッディーンがアラーウッディーンをかばうため、自分の私財でもってアバカを静めようとしたため、かえってアバカはこの兄弟を疑うようになり、大断事官(イェケ・ジャルグチ)であるタガチャルをバグダードに呼んで審理が始まった[59]。アラーウッディーンに関わる人物はすべて尋問を受け、アラーウッディーンが建てた建造物、寺院も次々と調査されたが、何も発見することはできなかった[60]。にもかかわらずアラーウッディーンは枷をつけられ、国庫に納入すべき黄金300トゥメンを支払わさせることによって死刑は免れた[60]。
赤毛のソンコルの謀反
マムルーク朝でカラーウーンが新スルターンに即位すると、ダマスクスの長官であった赤毛のソンコルはシリア王になろうと欲し、1280年6月に反旗を翻したが敗北してしまう[61]。そこで赤毛のソンコルはアバカに書を送り、共にシリアを攻めることを提案した[62]。10月、アバカはアレッポへ侵攻し、アインターブ、ダルバサーク、バグラースの諸城を占領した[63]。アバカはアレッポに入城すると男子を殺し、婦女子を捕虜とし、イスラム寺院、学林、スルターンの王宮、諸将の邸宅を焼き払い、2日間殺戮と破壊を行った[63]。一方でカラーウーンはソンコルを討つため進軍を開始していたが、アラブ人のアミール・イーサー・イブン・ムフナのとりなしによって赤毛のソンコルは赦されることとなり、1281年5月、カラーウーンと赤毛のソンコルは講和した[64]。
第二次ホムスの戦い
アバカは3万の軍を率いてラフバト要塞を包囲し、アバカの弟モンケ・ティムールの別軍はルームを横断してカイサリア市とアブルスターン市との間に軍営を置いた[65]。キリキア・アルメニア国王も騎兵隊を率いてこれに合流した[66]。モンケ・ティムールはアインターブ街道を経てシリアへ入り、ハマー市の周辺を荒らし、ヒムス(ホムス)市に進んだ[66]。1281年10月30日、イルハン朝軍とマムルーク朝軍はハマー市とヒムス市の間の平原にあるハーリド・イブン・アル=ワリードの墓の付近で対峙した[67]。モンケ・ティムールの軍は2万5千のモンゴル人、5千人のグルジア人、キリキア・アルメニア王レヴォン3世率いるアルメニアおよびテュルク・ルームの軍隊で構成されていた[67]。マムルーク朝側も同じくらいの兵力であった[67]。スルターン・カラーウーンはハマーの王侯、将軍ベイセリ、タイバルス、アイベク、ケストグディ、ダマスクスの長官アミール・フサームッディーン・ラージーンの部隊を右翼とし、シャラフッディーン・イーサー・イブン・ムフナ率いるシリアのベドウィン部隊を右翼の前衛とし、赤毛のソンコル、ビリク、ベクタシュ、サンジャル、ベチカ、ベクトゥト、チェレク、トルクメン人とクルド人部隊を左翼とし、将軍タランタイ、将軍アヤジ、ベクタシュ・イブン・ケルムンとスルターンのマムルークを中軍の前衛に配置した[67]。はじめモンゴル軍の左翼がマムルーク朝軍の右翼に突撃したがマムルーク朝軍はもちこたえ、逆にモンゴルの左翼に突撃してこれを潰走させた[68]。一方のマムルーク朝左翼と中軍はモンゴルの将軍マズク・アカ、ヒンドクル、アリナク指揮下のモンゴル・オイラト人、グルジア人、アルメニア人で構成されたモンゴル右翼軍によって突破され、ヒムス城門まで追撃された[68]。モンゴル軍は追い詰めたマムルーク朝軍を大量に虐殺し、輜重と軍資金を掠奪した[68]。しかし、そこでモンケ・ティムール本隊が潰走したことを知り、慌てて退却した[68]。その後マズク・アカらの右翼軍はスルターン・カラーウーンによって追われ、甚大な被害を被った[69]。この戦闘でモンゴルの将軍サマガルは戦死した[69]。モンケ・ティムールはその残兵を率いてユーフラテス川を渡り、彼の母の所領であるモースル市へ逃げ込んだ[70]。マムルーク朝軍の被害も甚大であったが、この戦いはマムルーク朝の勝利に終わった[71]。アバカは最初ラフバト要塞をはじめ、いくつかの要塞を破壊した後、9月20日にスィンジャール市に帰り、11月にモースル近くのマフラビーヤのオルドに帰還したところだったが、そこでモンケ・ティムールの敗北を知った[72]。これに怒ったアバカは将軍の誰かが義務を怠ったせいだと考え、次のクリルタイで義務を果たさなかった者を裁判にかけて処罰すると言明し、今度は自らがエジプト人を征討すると言い放った[72]。
アラーウッディーンに課せられた苛酷な処置
その間にマジュド・アル=ムルクはアラーウッディーンが国庫に返還することを約束していた300トゥメンの黄金を受け取るためにバグダードに赴いた[73]。支払いができなかったアラーウッディーンはすべての所有物、妻子すらも明け渡し、将来どんな小さなことでも背任行為を犯したら自分の首をもって償うことを承諾した[74]。アバカは彼の罪を赦免し、1281年11月27日に出獄させた[74]。しかし、その後もマジュド・アル=ムルクは主張を繰り返し、将軍タガチャル、オルドカヤとともにバグダードに赴いて未払いの300トゥメンを強奪しようと計り、まだ支払うことができないアラーウッディーンを捕らえて拷問にかけ、裸で市中を引き回した[74]。
アバカの崩御
バグダードにいたアバカは1282年2月13日に出発して3月18日にハマダーン市に着き、この地のマリク・ファフルッディーン・ミヌーチフルの邸宅に宿泊した[74]。平素からアルコールにふける習慣のあったアバカはある晩、度を越して酒を飲んで、夜半に室外に出たが、樹の上に黒い鳥がいるのを見たと言って衛士の一人に矢を射るよう命じた[74]。衛士はその鳥を見ることができなかった[74]。すると突然アバカは絶命し、1282年4月1日に崩御した[74]。享年48歳であった[74]。彼の遺体はタラ城堡のなかのフレグと同じ墓の傍ら[注釈 6]に埋葬された[74]。
宗室
『集史』「アバカ・ハン紀」によると、アバカの息子はアルグンとガイハトゥ(キハト)の2人で、娘は7人がいたと伝えている。
父母
后妃
正妃(ハトゥン)
側室(クマ)
- カイミシュ・エゲチ[注釈 17] - 長男アルグンの母
- キョクテイ[注釈 18] - 四女トガンチュクの母
- ブルガチン・エゲチ
- ボウルジン・エゲチ[注釈 19]- 五女イル=クトルグ、六女オルジェイタイの母
- シーリーン・エゲチ[注釈 20]
- アルタイ・エゲチ
- トデイ(トダイ)・ハトゥン[注釈 21] - 長女ユル=クトルグ、ノカイ(不詳)の母。コンギラト部族出身。後にテグデルとアルグンの妃となる。
※その他氏名不明の側室多数
子女
男子
女子
- 長女 ユル=クトルグ[注釈 22] - 母トダイ・ハトゥン。アルグン幕下の有力部将でバイドゥ・ハン選出にも列席することになるイルチダイ・クシュチに降嫁。
- 次女 タガイ(トガイ)[注釈 23] - アバカ、アルグン、ガイハトゥに代々仕えたチャガン・タタル部族のドラダイ・イデチに降嫁。
- 三女 マリカ[注釈 24] - 母ブルガン・ハトゥン。母方の従兄弟トガン・ブカ[注釈 25]に降嫁。
- 四女 トガンチェク[注釈 26] - 母キョクテイ。アミール・ノウルーズ[注釈 27]に降嫁。
- 五女 イル=クトルグ[注釈 28] - 母ボウルジン・エゲチ。フーシン部族のアラブタイ・キュレゲンに降嫁。
- 六女 オルジェイタイ[注釈 29]- 母ボウルジン・エゲチ
- 七女 ノチン[注釈 30]- 母ミリタイ・ハトゥン。
- 不詳 ノカイ - トダイ・ハトゥンの娘でユル=クトルグの同母姉妹。