チェルニゴフ包囲戦 (1239年)
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本項は、1239年に行われたチェルニゴフ(現ウクライナ語名チェルニーヒウ)をめぐる攻防戦に関する記述である。この攻防戦はモンゴルのルーシ侵攻の一過程であり、バトゥを総司令官とするモンゴル帝国軍が、1239年秋にルーシの都市チェルニゴフを陥落させた戦いである。これにより、チェルニゴフを首都とするチェルニゴフ公国領はモンゴル帝国の支配権に入った。
1237年から1238年にかけての、モンゴル帝国軍による北東ルーシ(ウラジーミル大公国領など)侵攻によって、ウラジーミル大公ヤロスラフは手中にあったキエフ大公位を維持できなくなり、チェルニゴフ公位にあったミハイルがキエフ大公の座を得た。変わってチェルニゴフ公位はミハイルの従兄弟のムスチスラフが得たとされるが、ミハイルは依然チェルニゴフ公位をも所持しており、ミハイルは公位を弟のアンドレイに渡したとみなす説もある[1]。いずれにせよ、1238年末から1239年初めにかけて、ミハイルがリトアニア人に対する遠征のためにガーリチへ出征している最中に、モンゴル帝国軍が、チェルニゴフ公国南西のペレヤスラヴリ公国領とステップとの境界線に出現し、チェルニゴフ公国領へも侵入するに至った。