チリ・ルター派教会
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ドイツ系チリ人教会としての設立

ドイツ語圏からの大規模な移民流入と定着によって、チリでルター派教会が設立された。その移民の主たる出身地はドイツであったが、新教徒の多い州であるスイスのカントンから来た者もいた。1781年10月にヨーゼフ2世による寛容令が発布されたオーストリアにおいて、 オーストリア皇帝フランツ1世 オーストリア皇帝フェルディナント1世によって迫害されたルター派教徒のプロイセン移住後、1856年から1860年の間に オーストリアシュヴァーツ郡ツィラータール渓谷に住むルター派教徒(ツィラータール・インクリンアンテン)の一部はチリ・ロス・ラゴス州のジャンキウェ湖周辺に移住した。 これらの理由で、当初はドイツ語を用いる教会共同体として設立されたが、チリ社会に統合され、チリで生まれ育った国民を牧師に任職することで、スペイン語も用いるバイリンガルな組織になっている。
軍政支持のドイツ系教会として分離独立
1975年までチリのルター派は、ルター派世界連盟に加盟するチリ福音ルター派教会(IELCH)と呼ばれる一つの教会に結集していた。しかし、ヘルムート・フレンツ監督 [注 1]に率いられたこの教会はアウグスト・ピノチェト 陸軍総司令官によるチリ・クーデター後の体制に抵抗した。その結果、軍事独裁政権を支持した大半のドイツ系教会共同体は離れ、独自にチリ・ルター派教会(ILCH)を設立した[2]。
チリ社会の民主化と共に、変化し続ける教会
チリ・ルター派教会(ILCH)はピノチェト軍事独裁政権終焉後の1991年にリベラルなルター派世界連盟に加盟し[3]、1993年にドイツ福音主義教会 (EKD)と宣教協力を取り決めた後[4]、エキュメニズム運動と教派を越えた活動に参加するようになっている。とりわけ、受難週において他の教派と共に礼拝を守るようになっている[5]。チリ独立記念日の9月18日にも他の教派と共にテ・デウムを歌唱し祝うようになっている [6]。 同様に、貧困問題、社会的排除、少数民族問題、性的少数者問題、家庭内暴力問題、性的虐待問題等のチリにおける社会問題に関して、チリのルター派教会共同体は積極的役割を担っている。
2014年3月15日、チリ・ルター派教会は女性を牧師に任職させたチリで最初のルター派教会である[注 2][7]。チリ・ルター派教会はドイツ福音主義教会に属する大半の州教会と同じ様に、バルメン宣言をアウクスブルク信仰告白とマルティン・ルターによる小教理問答と同様に信仰告白として扱っている[8]。

