テオベルト・マーラー
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マーラーはローマで生まれた。父のフリードリヒはバチカンにおけるバーデン大公国の代表としてローマに滞在していた。カールスルーエ・ポリテクニークで建築と工学を学んだ後[1]、20歳のときにウィーンで建築のための製図の職を見つけ、オーストリアの市民権を得た[2]。
パリとロンドンを訪問した後、1864年にメキシコ皇帝として赴任するマクシミリアン大公を支援するためのオーストリア軍に参加してメキシコへ行き、帝政崩壊までの3年間で階級は大尉にのぼった。その後も帰国せず、11年間にわたってメキシコに滞在した[2]。1874年から写真の撮影をはじめ、1875年にはテワンテペックの発掘を行った。またマヤの遺跡であるパレンケの探検も行った[1]。
1875年に父が死亡した後、その財産をプロイセン政府が差し押えたため、問題を解決するために1878年にヨーロッパに戻った。解決には5年の年月を必要とした[2]。この間にトルコやコーカサスに旅行している[2]。パリの社交界で、マーラーは写真家として知られるようになった[1]。
1885年に再びメキシコに渡った。ユカタン州のティクルに居を定め、10年間にわたってユカタン半島各地の遺跡を調査し、写真を撮影した[2]。
1895年にはティカルを調査し、そこからパシオン川とウスマシンタ川を下って、モトゥル・デ・サン・ホセ、セイバル、ピエドラス・ネグラスなどの写真を撮影した[2]。
1898年にアメリカ合衆国のピーボディ考古学・民族学博物館の依頼を受け、3回の探検を行ったが、同様にピーボディのためにチチェン・イッツァの調査を行っていたE.H.トンプソンの敵意にあったため、1905年に調査を中断した。このためにティカルの報告は不完全なものになっている[2]。
