ディーナール金貨
初期のムスリム国家で使用された金貨
From Wikipedia, the free encyclopedia
歴史



「ディーナール」の語源はギリシア語の「デナリオン」に由来し、元来は銀貨を意味した。アラブ人はイスラーム教の誕生以前から交易を通じて、ローマやビザンチンの金貨に慣れ親しんでおり、「ディーナール」という言葉は聖典クルアーンにも登場するほどである(Q3:75)[1]。
アラブ人の作製したディーナール金貨の最古のものは、印刻日時、鋳造場所ともに厳密には不明だが、高い可能性でヒジュラ暦72年/西暦691-692年、ダマスクスで鋳造されたものである[1]。ビザンツのヘラクレイオス帝とその二人の息子が発行したソリドゥス金貨を模しており、キリスト教的モチーフを消去している[1]。その代わりに、イスラーム教的フレーズをアラビア語及びアラビア文字で印刻している[1]。
その次に古いのはヒジュラ暦74年/西暦693-694年の刻印のあるもので、ウマイヤ朝の首都ダマスクスで鋳造された[1]。この金貨には「帯剣する人物」の図像表現がある[1]。ヒジュラ暦76年、77年にも同じものが鋳造されている[1]。しかし、その後のディーナール金貨は、これらとまったく異なった意匠のものになる[1]。この変化はアブドゥルマリク・イブン・マルワーンの通貨改革がもたらしたものである[1]。
標準化
アブドゥルマリクの通貨改革以前のディーナール金貨を「移行期」として改革以後と比較すると、両者は表面の意匠の特徴が異なる[1]。移行期金貨には人物の図像表現があるのに対し改革以後は基本的に文字のみ、すなわち epigraphic(碑文的)である[1]。
重さも異なる[1]。移行期金貨の基準重量は、ソリドゥス金貨と同じ、約 4.55 グラムだったようである[1]。これに対し、改革後は 4.25 グラム[注釈 1]に減少した[1][2]。
これは、ディーナール金貨1枚の重さである 1 ミスカールを 20 キーラートと定義したこととも関係している[1]。前イスラーム時代からシリアのアラブ人の間で古代より使われ続けていた重さの単位であるキーラート qirat は、イナゴマメ Ceratonia siligua の種、1つぶの重さである。1 キーラートは現代の国際単位系で表すと、0.2125 グラムである。
改革以前は、ソリドゥス金貨や移行期ディーナール金貨の重さである1ミスカールを、「21と7分の3キーラート」であるとか、あるいは「22キーラートよりちょっと軽い」などと表現する必要があった[1]。アブドゥルマリクはこれを 1 ミスカール= 20 キーラートと定義して使いやすくした[1]。
1 ミスカールの軽量化には、イスラーム以前からアラビアで流通していたギリシアのドラクマ貨の重さも関係する可能性がある[1]。アッティカ地方のドラクマ貨の重さは、理論的には 4.37 グラムであるが、アラビアで実際に流通していたものは、摩耗など様々な理由でそれよりも軽かった[1]。
西方イスラーム世界
北アフリカ・イベリア半島におけるディーナール金貨の歴史は、シリアを中心とした地域の歴史からは半ば独立した展開をたどった[1]。遅くとも西暦704年より前の時点で、カルタゴで発行されていたタイプのソリドゥス金貨を模したディーナール金貨が鋳造された[1]。これにはビザンツのヘラクレイオス帝の姿が印刻されているが、銘はイスラーム教の宗教的フレーズがラテン文字アルファベットで印刻されている[1]。その後、人物の図像表現が消されたものや、銘にアラビア文字も入ったものが発行されたが、最終的に718年頃、アブドゥルマリク・イブン・マルワーンによる改革後のディーナール金貨とほぼ同じものがイフリーキヤのカイラワーンと、アンダルスのコルドバでそれぞれ発行された[1]。そしてその後、ヒジュラ暦106年(西暦724-725年)発行のものを最後に約200年間、ディーナール金貨は発行されなかった[1]。
8世紀の初頭には、「2分の1ディーナール金貨」や「3分の1ディーナール金貨」も発行された[1]。9世紀にはイフリーキヤのアグラブ朝により「4分の1ディーナール金貨」が導入され、ファーティマ朝により大量に発行された[1]。「4分の1ディーナール金貨」はイフリーキヤとシチリアで流通し、その後シチリア王国やアマルフィ公国では「タリー金貨」の名で知られていく[1]。
アンダルスの後ウマイヤ朝では、アブドゥッラフマーン3世によりディーナール金貨の鋳造が再開された[1]。
品質
ヒジュラ暦1世紀後半(西暦7世紀末)に制定・標準化されたディーナール金貨の重量及び純度は、ヒジュラ暦4世紀末(西暦11世紀初頭)まで、イスラーム世界のほとんどの地域で同じ水準を保った[1]。しかし、その後に発行されたディーナール金貨の中には非常に粗悪なものもあり、重量と純度ともに大きなバラツキがある[1]。
標準化後のウマイヤ朝発行のディーナール金貨の純度は、96%から98%の間を保ち、高品質である[1]。アッバース朝が発行したディーナール金貨の純度もおおむね同じ高品質である[1]。例外的に、カリフ位をめぐるアミーンとマァムーンの内戦期や、エジプトにおけるトゥールーン朝からイフシード朝への交代期、バグダードにおけるブワイフ朝支配期には純度が低下した[1]。カリフ・ナースィル以後の後期アッバース朝が何度か鋳造したディーナール金貨は標準化直後のディーナール金貨の品質を下回るが、まだ「価値が地に落ちた」と言えるほどではない[1]。
エジプト入城後のファーティマ朝は98%を超える純度のディーナール金貨を鋳造し、カリフ・アーミルのころにほぼ100%に達した[1]。十字軍の侵攻を受けたアイユーブ朝のサラーフッディーンのころに90%にまで低下したが、その後継者たちの時代に98%を超える純度を取り戻した[1]。
ガズナ朝、セルジューク朝、ホラズムシャー朝など、アッバース朝衰退以後の東方イスラーム世界で発行されたディーナール金貨の純度に関しては研究が進んでいない[1]。11-12世紀ごろのホラーサーン東部で鋳造されたディーナール金貨はじっさいには金銀合金であり、それも銀の含有率が高いものである[1]。金銀合金製の「ディーナール」はターイファ諸王朝期のイベリア半島でも鋳造された[1]。さらにその後、モンゴル期以後のイラン東部やホラーサーンでは、銀銅合金製の「ディーナール」も出現した[1]。
両替
前近代の中東において、ディーナール金貨は基本的に枚数ではなく、重量により取引された[1][2]。「スッラ」という、重量と純度を保証したディーナール金貨を詰めた財布の形態でも流通した[1]。
7-8世紀クーファの法学者イブラーヒーム・ナハイーはクーファ金貨1枚とシリア金貨1枚の間の「剰余」があった場合、差を銀で埋め合わせることを忌避したと伝えられている[2]。また、8-9世紀には預言者やサハーバのハディースが集成されることになるが、この中でも、のちのリバーの禁止規定の根拠になる「金と金の交換は等しい量をその場でしなければならない(大意)」という内容の預言者ハディースが参照され始める[2]。これらの学説やハディースの通りであれば、ウマイヤ朝は旧金貨と新金貨の等しい枚数の交換により大儲けしたはずである[2]。
他方で、7-8世紀マディーナの法学者サイード・イブン・ムサイイブ(ナハイーより30歳くらい年長)は、金と金、銀と銀の交換は秤をもってしなければならないとし、この結果として10ディーナールと11ディーナールが交換されても差し支えないと言ったと伝わる[2]。歴史的には、上述のように、ディーナール金貨は秤で精密に重さが量られて取引されることになった[1][2]。ウマイヤ朝の通貨改革というハディースの歴史的文脈は忘却される一方で、ハディースの字面通りではなく、中東の地域社会の慣習に適合するように解釈されていき、学説の中で引用されていった[2]。
