アブド・アッラフマーン3世
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南部の平定
912年に即位したが、当時はムワッラド貴族の反乱が王朝を苦しめており、彼は国をまとめ上げてこれに対峙する必要があった。918年にボバストロを拠点とした、反王朝最大勢力の指導者であったイブン・ハフスが死に、アブド・アッラフマーンはその息子たちとも戦い続け928年にこれを平定した[5]。
カリフ宣言
北部の平定
文化の発展
コルドバのメスキータ
治世の概要
王朝内部では主導権をめぐる派閥対立が発生し、国外ではキリスト教徒によるレコンキスタ運動が盛んになったうえ、アフリカ北部の王朝・ファーティマ朝が勢力拡大を目指して侵攻してくるなど、治世前半から難題が積まれてしまった。しかしアッラフマーン3世は若年であるにもかかわらず、国内を見事に統率するに至り、敵対勢力も全て撃退するなど、優れた手腕を見せた。
そして929年、これらの経緯から君主として自信をつけたアッラフマーン3世は宿敵・アッバース朝やファーティマ朝と対抗するためにカリフとして即位し、ここにイスラム世界は東にアッバース朝、西に後ウマイヤ朝の二大カリフが存立するに至った。その後、レコンキスタを徹底的に弾圧して959年にイベリア半島全土をほぼ支配下に治め、アフリカ北部にも勢力を拡大した。内政においても農業を奨励して生産を倍増させ、軍備を拡大して軍隊の強化に努めた。さらに文化を保護し、イスラーム文化と欧州の文化を融合させた一大文化を形成した。このため、後ウマイヤ朝の首都コルドバは一大商業都市として大いに発展し、その人口は30万人以上を数えるに至った。また、コルドバの近郊に離宮都市のザフラー宮殿を着工させて居城とし、建設は彼の死後に完成した。
キリスト教国との外交も行い、レオン国王サンチョ1世や神聖ローマ皇帝オットー1世に使節を派遣している。
961年、73歳で死去し、子のハカム2世が継いだ。
アッラフマーン3世の時代、後ウマイヤ朝はその治世のもとで全盛期を迎えた。
なお、生年には異説が多く、一説には891年生まれとも言われている。