ディビッド・タムソン
アメリカの宣教師
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生涯

オハイオ州に生まれ[1]、1855年にハリソン郡ニュー・エイセンズにあるフランクリン大学に進学した。同級生にジョン・A・ビンガムがいる。大学時代は自然科学を勉強した。1859年に卒業して、ペンシルベニア州アレゲニー長老派のウェスタン神学校(現・ピッツバーグ神学校)に入学した。1862年4月に按手礼を受けて、ウェスタン神学校を卒業した。
卒業後に短期間アレゲニー市の長老教会で牧師をしたが、11月より日本派遣宣教師に任命され、11月30日にニューヨーク港から単身、喜望峰経由で日本に向けて出発した。6か月後の1863年5月18日に横浜に到着した。かつてJ・C・ヘボンが住んでいた成仏寺に入居して、日本で生活を始めた。
幕末の攘夷運動が激化したので、バラ一家とともに横浜居留地に移動させられた。タムソンはヘボンの紹介で日本語教師を得て、日本語の学習を始めた。
1864年7月に神奈川奉行所はヘボンの意見を採用して横浜英学所を開校し、S・R・ブラウン、J・H・バラ、タムソンの3人のアメリカ人宣教師が教師に就任した。タムソンは当初算術の担当であったが、翌1865年には地理学を教えた。この時の生徒に、安藤太郎や大鳥圭介がいた。
タムソンはこの年、日本語教師として小川義綏を迎えたことで日本語力が向上し、小川を助手にして、旧約聖書ヨブ記の原語(ヘブル語)からの和訳を試みた。英学所での授業が充実し始めたころ、11月26日に豚屋火事によって、横浜英学所の校舎が焼失した。そのため、トムソンはヘボンの施療所に間借りすることになった。
1869年(明治2年)7月に長老派宣教師としてタムソンと同郷のクリストファー・カロザース夫妻が横浜に到着した。タムソンには加賀藩主前田氏からの招聘があったが断り、小川夫妻とともに入船に日本家屋を借りて入居した。
1870年(明治3年)にタムソンはヘボンの日本語教師である奥野昌綱の親戚を通じて、紀州藩から訪米事情について講義を頼まれ、小川と一緒に紀州を訪問した。このとき、長崎浦上から和歌山に配流されているキリシタンが狭い牢に押し込められ飢えと寒さに苦しむ過酷な状況に置かれていることを知り、当時まだ禁制であったキリスト教信仰の自由についてアメリカ政府を通じて要求するよう求める声明文を、ヘボンおよびカロザースと連名で長老教会海外伝道局に送付した[2]。
1871年(明治4年)、太政官が西日本の13藩に対して欧米諸国視察を促す布告をしていた。タムソンはその視察団の通訳と案内人を依頼されて欧米諸国を訪問した。この視察には片岡健吉が同行していた[1]。訪問中、タムソンは各国の福音同盟会を訪ね、日本における信教の自由が実現されるよう協力を求めた。これらの活動の結果、1873年(明治6年)2月に切支丹禁制の高札が撤去され、信仰が黙認されるに至った[2]。同年9月、東京基督(キリスト)公会(新栄教会)を設立。
1874年(明治7年)5月、前年に日本に派遣されていた長老教会の女性宣教師メアリー・パークと結婚。同年10月にカロザースが設立した築地大学校の教師を経て[3]、1877年(明治10年)に東京一致神学校講師となった[1]。1880年(明治13年)4月にJ・C・バラの築地大学校が開校すると教授を務めた[3]。また、長谷川武次郎からの依頼により日本の昔話を翻訳し、1885年(明治18年)から『欧文日本昔噺』シリーズとして刊行された[4]。