デド3世 (ラウジッツ辺境伯)
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デドは、マイセン辺境伯コンラート1世とその妻リウトガルト・フォン・エルヒンゲンの次男である[1]。1144年以降、デドはグロイチュ伯ハインリヒ(1135年没)の法定相続人として、またハインリヒの妹でグロイチュ家の相続人であった叔母ベルタ(1143年没)の養子として、グロイチュを統治した。1156年に父コンラートが引退すると、ヴェッティン家の領地は分割され、デドは正式にグロイチュ伯領とロホリッツ領を受領し、ナウムブルク司教区を管轄した。
デドは、ホーエンシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世のイタリア遠征に5回参加した。 1177年、デドはフリードリヒ1世の特使として教皇アレクサンデル3世のもとに赴き、フリードリヒ1世に代わってヴェネツィア条約の遵守を誓約した。この条約により、教皇と皇帝の分裂は終結した。
ドイツに戻ったデドは、人生の大半をロホリッツで過ごしたとみられる。兄のマイセン辺境伯オットー2世と同様に、領土へのドイツ系住民の定住を奨励した。デドは私設修道院としてヴェクゼルブルク修道院を創建し、そこに自身と子女が埋葬された。兄のマイセン辺境伯オットー2世やラウジッツ辺境伯ディートリヒと共に、ヴェルフ家のハインリヒ獅子公との争いにおいて、フリードリヒ1世の忠実な支持者であった。
1185年、共に「ランツベルク辺境伯」を称していた兄ディートリヒ2世が崩御すると、デドはラウジッツ辺境伯領を相続し、フリードリヒ1世の命により辺境伯の地位を継承した。1190年、兄オットー2世の崩御に伴いマイセンで起きた継承争いにおいて、デドとその息子たちは従兄弟のアルブレヒト傲慢伯に味方した。
第3回十字軍への参加に備えて体調を整えるため、デドは医師に脂肪吸引手術を依頼した。手術は失敗に終わり、1190年8月16日に亡くなった。
