デニス・オケリー
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1728年頃にアイルランドのカーロウ県テュロウでフィリップ・オケリーの息子として生まれた[2][注釈 1]。 貧しい生い立ちだったオケリーは若くしてロンドンに渡り、チェアマン(輿丁。セダン・チェア〈輿〉を運ぶ人夫)として生計を立てた[4][2][3]。力強さと機転である貴婦人(名前は不明)を惹きつけ[4]、彼女から得た金でカードやビリヤードの賭博に興じ、社交界と接点を持ち始めた[2]。しかし生活は安定せず、結局ビリヤードやテニスのマーカー(賭け金の取り立て役)として雇われるようになった[4][2]。
オケリーは1757年に借金でフリート債務者監獄に収監された[2]。ここではタップスター(囚人にビールを注ぎ配る人)として金を稼ぎ、囚人仲間から「オケリー伯爵 (‘Count’ O'Kelly)」という渾名をつけられた[2][3]。また獄中で著名な娼婦シャーロット・ヘイズと出会って内縁関係となった[4][5][2][3]。オケリーとヘイズは1760年のジョージ2世崩御に伴う恩赦で釈放された[6][3]。
釈放されたオケリーは(おそらく当初はヘイズの資金援助を受ける形で)競馬のブラックレッグ(プロ賭博師)となり、1769年の時点で馬主としてサリー州エプソムに厩舎を所有するまでになっていた[2]。彼の名は18世紀最高の競走馬エクリプスと分かち難く結びついている[2][3]。オケリーは、1764年にカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス王子が生産しウィリアム・ワイルドマンが75ギニーで購入していたエクリプスの情報をいち早く手に入れ[注釈 2]、1769年5月3日にエプソム競馬場で行われたデビュー戦の第2ヒートで全馬の着順を予想する有名な賭け――「エクリプスが1着、他の馬はすべて着外」――を行って的中させた[8][注釈 3]。エクリプスがアスコット競馬場で行われたデビュー2戦目も勝利した後、オケリーは650ギニーを出資してエクリプスの所有権の半分を入手した[10]。程なくして彼は更に1,100ギニーをワイルドマンに支払い、エクリプスの単独所有者となった[9][11][2]。最終的にエクリプスは18戦18勝の成績で無敗のまま引退し、種牡馬としても成功[2]。オケリーはエクリプス産駒のヤングエクリプスとサージェントでダービーステークスに勝ち、加えて種付料で約25,000ギニーを稼いだ[2]。他にもウェールズ公ジョージ王子(後の国王ジョージ4世)の持ち馬となって1788年のジョッキークラブプレートを制したガンパウダーはオケリーの生産した馬だった[9]。

マカロニの衣装を着てエクリプスに跨るオケリーの風刺画。「ザ・ベッティング・ポスト」紙、1773年5月12日。
オケリーはエプソムのクレイ・ヒルというカントリー・ハウスを手に入れ、さらにミドルセックス州エッジウェア近郊のかつてシャンドス公爵ジェームズ・ブリッジスが所有していたカノンズの地所を取得した[9]。加えてミドルセックス民兵隊の士官階級を購入して社会的地位を向上させ、大尉、少佐、大佐と昇進し[9][2][注釈 4]、ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーを始めとするランカシャーの貴族たちを招いて昇進を祝う催しも行った[3]。それでもその出自ゆえに上流階級に受け入れられることはなく、ジョッキークラブへの入会は拒否され続けた[2][3]。容姿については同時代人から「背が低くがっしりした体格で、肌は黒く、顔つきは険しく、荒くれ者のように見える」と描写されているが、一方で「気楽さや紳士のような優雅さ、そしてお道化者らしい魅力的な風変わりさ」も備えていたという[9]。また賭博師として巨万の富を築いた身でありながら自宅での賭博を決して許さず[9][12]、エクリプスを用いた八百長にも応じることがなかった[2]。
オケリーは「ポリー」と名付けられたおしゃべりなオウムの飼い主としても有名だった[9][3]。50ギニーで購入されたポリーはイギリスで初めて生まれたオウムで、言われたことを繰り返すだけでなく様々な質問に答え[3]、さらに『旧約聖書』の「詩篇第104篇」を口笛で吹くことができたという[9]。このオウムは競走馬におけるエクリプスのような存在だったと評されている[9]。
1787年12月28日にオケリーは痛風のためピカデリー(ミドルセックス州メイフェア)の自宅で死去し[9][13][2][3]、1788年1月7日にミドルセックス州ホイットチャーチ(現在のエッジウェア)に埋葬された[14]。エクリプスやダンガノン、多数の繁殖牝馬は兄フィリップ・オケリーが承継し、生産牧場も引き継いだ[9]。「オケリー夫人」と名乗っていたシャーロット・ヘイズはポリーと終身年金やクレイ・ヒル[注釈 5]の使用権を与えられ[2]、1810年代まで生きた[5]。残りの財産は甥アンドルー・デニス・オケリーが相続した[9]。アンドルーはジョッキークラブ会員となり、1793年のジョッキークラブプレートにカードックを出走させた[9]。また賭博で得た財産が賭博で失われることを嫌ったオケリーは、相続人が賭けを行うたびに罰金[注釈 6]を課す条項を遺言書に追加した[9][2]。ただしアンドルーは隠れて賭博を行ったという[2]。
