トマス・ア・ケンピス
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生涯
トマスは1379年(1380年)、ドイツのケルン北西に位置するケンペンに生まれた。出生時の姓はヘメルケン(または「ヘメルライン」、ラテン語ではマレオルス Malleolus)であり、「小さなかなづち」の意である(「ア・ケンピス」はラテン語で「ケンペン出身の」を意味する)。彼の両親は職人階層の出であり、父ヨハネスはおそらく金属加工に従事しており、母ゲルトルートは村の学校を営んでいたとされる[2]。
1392年頃、トマスは兄のヨハネスの後を追って、オランダのデーフェンテルにある名門ラテン語学校に通うために故郷を離れた。しかしデーフェンテルに到着すると、兄は2年前に「共同生活兄弟会」の他の5人の兄弟たちと共に、デーフェンテルから約20マイル離れたヴィンデスハイムへ、律修参事会員の新しい共同体のために出発していたことを知った。そこでトマスはヴィンデスハイムの兄のもとに行き、合流した兄は長上フロレンス・ラーデウェインスへの紹介状を用意した。ラーデウェインスはトマスをデーフェンテルの学校長に紹介し、最初の学費を払った[2]。
デーフェンテルの学校に通う中で、トマスはフロレンス・ラーデウェインスの庇護を受け、共同生活兄弟会の霊性から強い影響を受けた。デーフェンテルでのトマスの学業は、1399年頃まで続いたとされる。トマスは写字生として優れた技能を示した。このとき、彼は聖書を少なくとも四度筆写しており、そのうち一部はドイツのダルムシュタットに五巻本として保存されている[2]。
1399年、アムステルダムの北東ズウォレに近いアグネーテンベルク山上にあるヴィンデスハイム修道会(聖アウグスチノ修道参事会に属する会)の修道院に入った。そこでは兄のヨハネスが初代院長を務めていた[3]。
内的および外的の多くの苦難の後、1406年に着衣式を挙げ、1413年(もしくは1414年)に司祭に叙階された[3]。1429年には副院長となった。
副院長としての彼の最初の任期は、1429年にアグネーテンベルクから兄弟会の共同体が追放されたことで中断された。空位となっていたユトレヒト司教座の任命をめぐる紛争に起因する混乱であった。教皇マルティヌス5世は、司教に選出されたルドルフ・ファン・ディープホルトの指名を拒否し、破門令を下した。トマスら会士たちは、この破門令に従い、1432年に問題が解決するまで追放されたまま過ごした。この間、アルンヘムで修院長を務めていた兄の看護のためにトマスはこの地に赴き、1432年11月に兄が亡くなるまでそこに留まった[2]。
著作
トマスは、中世後期のネーデルラントに興った「デヴォティオ・モデルナ」の流れに属する人物でもある。共同生活兄弟会の創始者ヘールト・フローテ(ゲラルト・フローテ、グローテとも)や、その後継者フロレンス・ラーデウェインスの霊性を受け継ぎ、修徳的、神秘神学的、説教学的、伝記的、詩的著書を著した[3]。
著作には、聖女リドヴィナ(1380年 - 1433年)の生涯、ヘールト・フローテたち創立者たちの伝記なども含まれている。
最も有名な『キリストに倣いて』は、黙想と祈りを通して神にいたる道を説く著作であり、「デヴォティオ・モデルナ」の精神を最もよく表現した著作といわれている。著者については確定を見ていないが、おそらくトマスであるといわれている[2]。(過去において著者をジャン・ジェルソンと考える説もあったが、これは否定されている。ヘールト・フローテの著作の写本ではないかという説もある。)『キリストに倣いて』は出版以来、世界の各国語に訳され、日本では早くも1596年に『こんてむつす・むんぢ』というタイトル(元はラテン語のCONTEMPTUS MUNDI)で日本語訳が出版されている[4]。(キリシタン版)
