ドイツ社会学会
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| 創立者 |
ルドルフ・ゴルトシャイト ゲオルク・ジンメル |
|---|---|
| 団体種類 | 非営利団体[1] |
| 略称 | DGS |
| 設立 | 1909年1月3日[1] |
| 所在地 | ミュンヘン |
| 主要人物 |
ルドルフ・ゴルトシャイト ゲオルク・ジンメル マックス・ヴェーバー |
| 活動地域 | ドイツ |
| 主眼 | 社会学の研究と教育の推進[1] |
| 会員数 | 3,500人[1] |
| ウェブサイト | https://soziologie.de/aktuell |
ドイツ社会学会(ドイツしゃかいがっかい、ドイツ語: Deutsche Gesellschaft für Soziologie e. V.、略称 : DGS)は社会学研究と教育の促進を目的とした学術団体である。この団体は、「社会科学的問題を議論し、会員の学術的交流を促進し、社会学的知識の普及と深化に寄与する。」ことを目標に掲げている[1]。
ドイツ社会学会の設立宣言は、1909年3月9日、ベルリンのグランドホテル・エスプラナーデにて39名の学者たちによって行われた。しかし、その中に社会学の専門家は一人もいなかった。 実際の設立総会はそれ以前の1月3日に開催され、1月30日には最初の暫定理事会が開かれている[2]。
ドイツ社会学会は、世界で2番目に古い社会学系学術団体である。ただし、国際的にはイギリスに同様の学術団体がすでに設立されていたため、ドイツ社会学会は後発の学術団体と見なされている[3]。
設立の発起人は、{ルドルフ・ゴルトシャイトとゲオルク・ジンメルが挙げられる。マックス・ヴェーバーは、当初ドイツ社会学会に懐疑的だったが、会員勧誘に積極的に関与した。しかし、「価値自由」をめぐる論争のため、1911年1月1日にはすでに学会の理事会を離れていた[4]。
初代議長 (1922年以降は会長に呼称変更された。) として、フェルディナント・テンニースが選出された。彼は1933年、ナチス政権を公然と批判したため職を辞任させられた。当時、ドイツ社会学会の会員の一部はすでにドイツを離れて亡命または逃亡していた。
1914年から1918年の間、ドイツ社会学会の活動はほぼ停止しており、再設立は1922年に行われた。事務運営はレオポルド・フォン・ヴィーゼが担った[5]。
1933年4月にキールで予定されていた第8回社会学者大会 (テーマ:官僚制) は、ドイツ国内の政治情勢を背景に開催されなかった。1933年1月時点で、ドイツ社会学会には148名の正会員が在籍していた[6]。
テンニースの後任のハンス・フライヤーは、1934年にドイツ社会学会のすべての活動を停止した。同学会は1946年まで活動停止状態であった。ナチス政権下におけるドイツ社会学会の具体的な経緯、役割、活動については、社会学者の間でも意見が分かれている。また、この時期の文書は戦争中に焼失している[7]。
1946年、ドイツ社会学会は再建され、レオポルト・フォン・ヴィーゼが再建後の初代会長に就任した[8]。1948年、ハンナ・モイターが、かつて150名いた会員のうち半数以上が、当時の破壊的な状況により、すでにこの世を去っていると指摘した。この発言は、ナチス時代の加担・沈黙・犠牲について語ることが、当時はタブー視されており、モイターの発言は稀有なものであると言える[9]。
1955年、レオポルト・フォン・ヴィーゼの後任としてヘルムート・プレスナーが選出された[10]。 1959年のドイツ社会学会創立50周年記念ベルリン社会学者大会までに、戦後社会学には三つの大きな潮流が形成された。
- ルネ・ケーニッヒを中心としたケルン学派
- ライプツィヒ学派の影響を受けつつ、主にミュンスター大学のヘルムート・シェルスキーと結びつけられる潮流
- マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノを中心としたフランクフルト学派
1990年代まで、ドイツ社会学会は社会学の教育カリキュラムの策定と大学の学習課程の設備に関するガイドライン作成に重点的に取り組んだ。 ドイツ再統一はドイツ社会学会にとって新たな課題となった。統一直前に東ドイツ社会学会 (独: Deutschen Gesellschaft für Soziologie Ostdeutschland) が設立されていたが、統一後の1992年に解散した。東ドイツ社会学会およびドイツ社会学者職業協会との交渉の結果、1992年に社会学者のための共通の「倫理規定」が策定された。 この倫理規定は教育・研究に従事する学者の行動規範を定め、各協会の共同倫理委員会によって実行された。 2022年、ドイツ社会学会は約3400名の会員を擁し、36の部会、1つの作業共同体、および多数の作業グループが作られている[11]。2023年末には会員数は3,660名となった[12]。
ドイツ社会学会による社会学者大会 / 学術大会
1960年代以降に開催されたドイツ社会学会の社会学者大会は、「実証主義論争」において、批判理論と批判的合理主義の対立の場となったが解決には至らなかった。
次の論争の火種となったのは、1968年の学生運動である。ヘルベルト・マルクーゼとテオドール・W・アドルノ (独: Theodor W. Adorno) の二人と、当時のドイツ社会学会会長のラルフ・ダーレンドルフとの対立であった。 ドイツ社会学会の理事会は、社会の統一が脅かされていると認識し、議会外反対派 (独: Außerparlamentarischen Opposition) によるマルクス主義的理論の台頭に脅威を感じていた。 その結果、6年間の社会学者大会は中断することになった。その後、新たな社会学者大会が開催されることとなった。 ドイツ社会学会の目的と構造は再定義され、学者中心の団体からより広範な基盤を持つ団体へと変化が始まった。これにより、会員資格は教授に限定されず、博士号取得者にも拡大された。
1990年代半ばには、1909年から使用されていた「ドイツ社会学者大会 (独: Soziologentag) 」という名称が台頭する「女性学」セクションの要望により、性別的に中立な「ドイツ社会学会学術大会 (独: Kongress der Deutschen Gesellschaft für Soziologie)」へと変更された。
1990年代には、社会学大会が初めて東ドイツの都市 (ハレおよびドレスデン) で開催され、1994年にはドイツ社会学会がビーレフェルト大学と共に、国際社会学会 (独: International Sociological Association) 主催の世界社会学大会を開催し、4,000人の社会学者がビーレフェルトに集まった。 また、ドイツ社会学会創設初期から続いていたオーストリアおよびスイスの社会学者との協力関係も再活性化された。1998年には、フライブルクにてドイツ・スイス・オーストリアの共同社会学大会が開催され、当時の大会テーマ「国境なき社会」にふさわしい形となった。
現在の活動
ドイツ社会学会は1世紀以上をかけて、排他的な学者共同体から社会学分野で活動する研究者の幅広い団体へと変貌を遂げた[11]。ドイツ社会学会は様々な社会学的問題と理論アプローチに関する多数の部会と作業グループを擁し、それぞれが独自の研究会を開催している。50年前にその基本理念をめぐって激しい論争が繰り広げられた質的社会調査も、独自の部会を得ることとなった。社会学会議は3,000名を超える参加者を集める大規模イベントとなっている。 2000年以降、ドイツ社会学会は傑出した学術的生涯業績賞を授与している。最近では2022年にハンス・ヨアスがこの賞を受賞した。 2012年半ば、ドイツ社会学会は「重大な方法論的欠陥と実証的な欠落」を理由に、会員に対して高等教育開発センターの大学ランキングのボイコットを呼びかけた[15]。高等教育開発センター側からの説得力のある改善が見られないため[16]、ドイツ社会学会はドイツ歴史家協会と協力し、両分野の学習希望者に代替情報源を共同で提供することとなった。両専門団体は2014年に共同学習情報ポータル「studium.org」を立ち上げ、ドイツ教育学会とドイツ出版・コミュニケーション学会も参画している。