レオポルド・フォン・ヴィーゼ

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レオポルド・フォン・ヴィーゼ

レオポルト・マックス・ヴァルター・フォン・ヴィーゼ・ウント・カイザースヴァルダウ (Leopold Max Walther von Wiese und Kaiserswaldau 1876年12月2日 - 1969年1月11日[注釈 1]は、現在のポーランドドルヌィ・シロンスク県クラーツドイツ語版生まれ、ケルンで亡くなっている。彼はドイツの社会学者経済学者であった。大学教授であり、1946年に再建されたドイツ社会学会の会長を務めた。同職で、彼は同学会を学者団体として復活させるとともに、「国家社会主義時代には社会学が存在しなかった。」という、現在では虚偽が明らかになっている説の形成に主導的な役割を果たした。

ヴィーゼの両親は、プロイセンの大尉ベンノ・カスパー・レオポルト・フォン・ヴィーゼ・ウント・カイザースヴァルダウと、その妻アンナ・ヘレーネ・フォン・ラーベナウであった。ヴィーゼはシレジアの古い貴族家系ヴィーゼ・ウント・カイザースヴァルダウドイツ語版の出身であった。

彼は、ヴァールシュタットドイツ語版幼年学校リヒターフェルデドイツ語版プロイセン中央士官学校ドイツ語版にて教育を受け、非常に苦しい8年間の後、陸軍士官養成機関を卒業した。[注釈 2]

その後ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で経済学を学び、1902年博士号を取得した。 その後、フランクフルト・アム・マインの「公共研究所ドイツ語版」の科学秘書 (: wissenschaftlicher Sekretär) になった。 1905年にはベルリン大学で経済学の私講師となった。1906年にポーゼン王立アカデミードイツ語版国家学ドイツ語版教授に任命されたが[注釈 3]1908年にはハノーファー工科大学の経済学・産業経済学 (: Gewerbeökonomie) 教授に転じた。1912年にはデュッセルドルフの「地方行政アカデミー(: Akademie für kommunale Verwaltung) 」の学部長となり、1915年にはケルン商科大学ドイツ語版の教授となった。

第一次世界大戦後、ヴィーゼは1919年ケルンの「社会科学研究所」の所長となり、1919年に再建されたケルン大学で「国家経済学[注釈 4]」および「社会学」の正教授に就任した。彼はドイツ初の社会学講座を担当することになった。 上級市長コンラート・アデナウアーの提唱で設立された「社会研究所」では、彼は社会学部門の部長であった。彼が1921年から発行した『社会科学ケルン季刊誌 (: Kölner Vierteljahreshefte für Sozialwissenschaften) [注釈 5]』は、『社会学・社会心理学ケルン雑誌ドイツ語版』という題名で現在でも存続している。

1933年まで、ヴィーゼはドイツ社会学会の事務局長であった。ハンス・フライヤードイツ語版によるドイツ社会学会の「活動停止」と、国家社会主義者による社会科学研究所の閉鎖の後、彼は1934年に1年間渡米した。彼の講座はヴィリー・ギーアリヒスドイツ語版が引き継いだ。帰国後、彼は受講者限定で経済学を講義した。 1946年から1955年まで、彼は復活したドイツ社会学会の会長であった。1949年10月1日に彼は名誉教授となった。1954年に「国際社会学会ドイツ語版」の副会長に就任した。

私生活

ヴィーゼは3度結婚した。最初は1902年に画家のヨハンナ (ハンナ) ・フォン・ゲルスドルフ (: Kunstmalerin Johanna (Hanna) von Gersdorff) と結婚した。彼女と離婚した後、1919年にデイジー・フィンドレイ (: Daisy Findlay) と結婚したが、1925年に離婚した。同年、ジョージアから亡命してきたナタリー・ガレツェロフ (: Nathalie Garetzeloff) と結婚した。

彼には三人の子供がいた。第一子はベンノ・フォン・ヴィーゼドイツ語版、母親はヨハンナ。第二子はウルスラ・フォン・ヴィーゼドイツ語版、母親はヨハンナ。第三子はインゲボルク・フォン・ヴィーゼ (: Ingeborg von Wiese)、母親はデイジー。第四子はオッサーナ・フォン・ヴィーゼ (: Ossana von Wiese) 、母親ナタリーであった。

彼の墓所はケルンのメラーテン墓地ドイツ語版にある。

業績

ヴィーゼは社会学に関する著作が有名である。その中で彼は現代の社会学を歴史学、心理学、哲学から独立した固有の社会科学としての確立を試みた。 彼は社会的なものの4つの基本カテゴリーを区別した。それは「距離」「過程」「空間」「形態」である。

「距離」とは、人間同士の行動における精神的・知的な近さまたは遠さを意味する。その際、人間間の社会的関係を社会的「過程」として、またそれにとって重要な構造を社会的形態として注目した。 それらの過程においては人間と人間の間の社会的「距離」が変化することで、社会空間における人間と人間の関係を確定される。その際に形成される制度や組織が社会的「形態」であり、これらは大衆、集団、団体に分類されるとしている。

ゲオルク・ジンメルとともに、彼は形式社会学の創始者とみなされている。しかし彼の関係論は社会学において影響力が少なくなった[1] 。 彼の弟子ではカール・グスタフ・シュペヒトドイツ語版が有名である。シュペヒトはドイツにおける老年学医療社会学の創始者の一人である。シュペヒトはエアランゲン=ニュルンベルク大学で社会学を担当していた。

ヴィーゼと国家社会主義

ヴィーゼは1933年までケルン大学の経済・社会科学部の学部長であったが、1933年4月11日国家社会主義者の圧力により、学長のゴーデハルト・ヨーゼフ・エーベルスドイツ語版や他の学部長たちと同様に、この職から退任せざるを得なかった。 1934年、ヴィーゼは自らの関係論をもって新たな権力者たちに取り入ろうとした。 『ケルン社会学・社会心理学ジャーナルドイツ語版』において彼は次のように書いた。

「この世界の転換点を自分に作用させればさせるほど明らかになる。今こそまさにドイツにおいても、力強く作用する現実主義的な社会学説の時代が到来したのだ。生物学、遺伝学・人種学、そして政治倫理学だけでは不十分である。実践的発展によって提起された問題の非常に大きな部分、最大の部分は社会学に属するのである。[2]

しかし、ヴィーゼの主張にもかかわらず、ナチス体制は彼の社会学に価値を見出さなかった。

ドイツ社会学会の事務局長としても、ヴィーゼは「自己協調化の戦略」を推進した[3]1933年8月3日のリューベックでのドイツ社会学会評議会会議において、彼は国家社会主義運動との結びつきを容易にするためにドイツ社会学会の会員構成を補完することを勧告した。彼は特に「人種研究者」ハンス・ギュンターとナチス教育学者エルンスト・クリークの学会への受け入れを提案した。また、ユダヤ系と国外に亡命した社会学者たちはドイツ社会学会から排除されるべきであるとヴィーゼは主張した。 この時点でまだ在任中であったドイツ社会学会会長フェルディナント・テンニースだけが、この主張に明確な抵抗を示した。他の11名の評議員がこの策略に賛成票を投じたにもかかわらず、ドイツ社会学会規約は決して相応に変更されることはなかった[4]

ドイツ社会学会の戦後最初の会長として、フォン・ヴィーゼは、ナチス・ドイツ時代における学会の行動について言及しない「集団的沈黙」の戦略を推し進めた[5]。フランクフルトで開催された第8回ドイツ社会学会大会の最初の講演で、彼はナチス時代について次のように述べている[6]

それでもなお、ペストは人々に外部から、不意に、卑劣な襲撃のように襲いかかった。それは形而上学的な秘密であり、社会学者が触れることのできないものである。(: Und doch kam die Pest über die Menschen von außen, unvorbereitet, als ein heimtückischer Überfall. Das ist ein metaphysisches Geheimnis, an das der Soziologe nicht zu rühren vermag.von Wiese, 1946

マンフレート・ラウアーマンドイツ語版のヴィーゼに対して「社会学者というのは単に社会学的に思考するにはあまりにも愚かでありうる、ということを見事に証明した!( : glänzend unter Beweis, dass Soziologen schlicht zu dumm sein können, soziologisch zu denken!) 」と批判している[7]

再設立されたドイツ社会学会において、ヴィーゼは、一部では個人的な推薦者として、ナチス時代にもドイツで学術活動を行っていた専門同僚たちの受け入れを推進した。その中には以下の人物が含まれる:ハンス・フライヤー (ヴィーゼは会員総会の決議なしに規約に反して彼を受け入れている) 、アドルフ・ギュンタードイツ語版カール・ヴァレンティン・ミュラードイツ語版ヴィルヘルム・エミール・ミュールマンドイツ語版 (ミュラーとミュールマンの2人については、ヴィーゼが個人的な推薦者として保証した) 、エゴン・フォン・アイクシュテットイルゼ・シュヴィデツキードイツ語版[8]。これに対して、亡命した社会科学者たちは正会員資格を剥奪した[9]。彼の主導により、ドイツ社会学会は3回の人類学・社会学会議ドイツ語版を開催したが、これらには主にナチズムと関連のあった学者たちが参加した[10]。 『ケルン社会学・社会心理学雑誌 (: Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie) 』におけるテオドール・アドルノの権威主義的パーソナリティ研究 (Fスケール (心理学)英語版) に関する書評において、ヴィーゼは研究コンセプトに対する不理解を示すとともに、無意識の反ユダヤ主義を露呈した[11]

多くの場合において、ユダヤ人における異常性の存在が、非ユダヤ人に不健全な形で作用することがあるのではないだろうか?言い換えれば、ユダヤ人との悪い経験が調査対象者の判断に影響を与えることは、本当に決してないと言えるのだろうか? (: Mag nicht sogar in manchen Fällen das "Vorhandensein einer Abnormität" bei den "Juden" auf den nichtjüdischen Teil in ungesunder Weise einwirken? Mit anderen Worten: Sollten wirklich niemals schlechte Erfahrungen mit Juden das Urteil der Befragten beeinflussen?) von Wiese、Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie 3. Jahrgang, 1950–1951, S. 474.

『ケルン社会学・社会心理学雑誌』の同じ号で、ヴィーゼは「社会学と精神分析」というテーマについて書き、ジークムント・フロイトは詐欺師であり詩人であり、精神分析は厚かましく、素人くさく、非科学的であり、とりわけアメリカ人向けのものであってドイツ人向けではない、露骨に批判していた。

ヒトラーが現れた時、『ユダヤ人』フロイトとそのウィーン一派は終わりを迎えた。 (: Als Hitler kam, war es mit dem ‚Juden‘ Freud und seiner Wiener Clique vorbei.von Wiese、Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie 3. Jahrgang, 1950–1951, S. 460.

受賞・栄典

主な著作

参考文献

出典

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