ドミトリー・ムスチスラヴィチ
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ドミトリーの生年については詳しくは不明である。ルーシの年代記(レートピシ)にはその名も記載されておらず、ドミトリーという名は『リューベチ・シノディク』等の過去帳に記されたものである[2][注 1]。また、V.タティーシチエフ(ru)は名をヴァシリコとし[4]。L.ヴォイトヴィチはヴァシリコを本名、ドミトリーを聖名であるとみなしている[5]。
年代記における、ドミトリーに関する記述は1箇所のみである。すなわち、父ムスチスラフや他のルーシの諸公らとともにカルカ河畔の戦いに参加した、という記述である。この戦いで多くの公が戦死・刑死し、ドミトリーもまたその中の1人であったと考えられている[1][6]。
N.バウムガルテン(ru)は『リューベチ・シノディク』に基づき、ドミトリーはチェルニゴフ公であったとみなしている[7]。しかしこの説は否定的見解を受けており、L.ヴォイトヴィチは、ドミトリーは父がチェルニゴフ公となった後に、コゼリスク公国を分領公国として受領したのみとみなしている[5]。