ナクバ

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ナクバアラビア語: النكبةal-Nakbah ないしは an-Nakbah、アン=ナクバ、英語: Nakba)は、委任統治領パレスチナにおける1948年イスラエル建国と、それに続く第一次中東戦争(イスラエル側では「独立戦争」と呼ばれる)に前後して発生した、パレスチナ人アラブ住民の追放および避難によって、故郷や居住地を追われた70万人を超える[1]とも約75万人ともいわれるパレスチナ人難民化した出来事[2][3][4][5]。原義は「惨事」「厄災」を意味するアラビア語[6][注釈 1]であるが、パレスチナ問題においては、アラビア語では冠詞を付けた固有名詞として、パレスチナ人社会の崩壊と国土の喪失という、民族的な大悲劇を指す特定の歴史的出来事として使用されており、イスラエル建国宣言(1948年5月14日)グレゴリオ暦における翌日の5月15日は[注釈 2]パレスチナ自治区では「ナクバの日」と定められている[2]

日本語では「大災厄[7]」「大惨事[8]」「大破局[2]」などと訳される。

背景

1947年11月、国際連合はイギリス委任統治領パレスチナをアラブ人国家とユダヤ人国家に分割する「パレスチナ分割決議」を採択した。ユダヤ人指導部はこれを受け入れたが、パレスチナ人アラブ指導部および周辺アラブ諸国はこれを拒否した。この決議直後から、ユダヤ人武装組織とパレスチナ人アラブ武装勢力との間で内戦が激化した。

1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、翌15日、エジプト、トランスヨルダン(現ヨルダン)、シリア、イラク、レバノンなどのアラブ諸国連合軍が、独立したばかりのイスラエル領に侵攻し、第一次中東戦争が勃発した。

パレスチナ難民の発生

この内戦と続く国家間戦争の過程で、当時パレスチナに居住していたアラブ人住民の約半数にあたる、約70万から75万人が故郷を追われ難民となった[1]。難民の発生原因については、歴史的に大きな論争がある。

  • 戦争による避難: 戦闘の激化や、虐殺の報を聞いたことによる恐怖からの自主的な避難も多数発生した。
  • アラブ側指導者の退避勧告: かつてのイスラエルの「伝統的」歴史家たちは、難民の主な原因はアラブ諸国やパレスチナ人指導者が「戦争が終わればすぐに戻れる」として住民に一時的な退避をラジオ放送などで呼びかけたためであると主張していた。現在の歴史研究では、この要因の重要性は限定的であったとされることが多い。

ベニー・モリスは、難民の発生は単一の原因ではなく、イスラエル側の追放、戦闘への恐怖、アラブ側の勧告などが複合的に絡み合った結果であるとしつつも、イスラエル側の軍事行動が最大の要因であったと結論付けている[9]

パレスチナ側やイラン・パッペなどの一部の歴史家は、この一連の出来事を、イスラエルによる土地、財産、所有物の剥奪、およびパレスチナ人社会、文化英語版アイデンティティ英語版政治的権利民族的願望英語版を破壊する意図的な民族浄化[10]であったと主張している[11][12][10]

結果

戦争終結までに、旧イギリス委任統治領パレスチナの総面積の78%がイスラエルによって支配された。アラブ系が大部分を占めるパレスチナの人口の約半数、若しくは約75万人は[13]、故郷を追われ、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、シリア、レバノン、ヨルダン等に流出し、難民化した[1]

アラブ人を標的にした数十件の虐殺が行われ、アラブ人が大多数を占める500以上の町や村が無人化英語版された[14][15]。その多くは完全に破壊されるか、ユダヤ人によって再定住されヘブライ語新しい地名が与えられた英語版

イスラエルは戦後、これらの難民の帰還権を原則として拒否し、彼らの土地や財産はイスラエル国家に収容された。全体として、ナクバはパレスチナ社会の粉砕と、パレスチナ難民とその子孫の長期にわたる帰還権の拒絶を対象としている[16][17][18][19][20]

継続するナクバ

この用語は、1948年の出来事とともに、パレスチナ領域ヨルダン川西岸地区およびガザ地区)においてパレスチナ人が継続的に占領されていること、さらには同領域や難民キャンプでのイスラエルによる進行中の迫害と強制退去英語版を指しても用いられる[21][22][23][24][25]

さらに2023年10月7日のハマスイスラエル南部襲撃直後に始まったイスラエルのガザ地区侵攻によって約170万人の民間人が強制移動をさせられると、「新たなナクバ[26][27][28]」「第二のナクバ[8]」と呼ばれた。

対照的なナラティブ

パレスチナの民族的ナラティブは、ナクバを彼らの民族的アイデンティティと政治的願望を定義する集団的トラウマと見なしている。

一方、イスラエルの民族的ナラティブは、同じ出来事を、ホロコーストの生存者を受け入れ、周辺アラブ諸国による侵攻を撃退して国家と主権を確立した「独立戦争」の観点からとらえている[29][30][31]

この目的のために、パレスチナ人はイスラエルの独立記念日英語版の翌日にこの戦争の出来事を記念し、5月15日をナクバの日としている[32][33]。1998年、ヤーセル・アラファートはパレスチナ人はナクバの50周年を記念すべきであるとし、1948年のイスラエル建国宣言の翌日である5月15日をナクバの日と宣言し、1949年頃から非公式に使用されていた記念日を公式化した[34][35]

第三次中東戦争後の1967年には、別の一連のパレスチナ人の脱出英語版が相次ぎ、これは「ナクサ」(直訳:挫折)として知られるようになり、6月5日という独自の日が設けられている。

ナクバはパレスチナ文化英語版に大きな影響を与え、風刺漫画家ナージー・アル=アリー英語版アラビア語版[注釈 3]による政治漫画のキャラクターであるハンダラパレスチナのクーフィーヤ英語版[注釈 4]パレスチナの1948年の鍵[注釈 5]スイカとともに、現在のパレスチナのアイデンティティ英語版の基礎的な象徴となっている。ナクバについては、多数の本、歌、詩が書かれている[36]。パレスチナの詩人マフムード・ダルウィーシュは、ナクバを「未来に続くことが約束された、拡張された現在」と表現した[37][38]ナクバ否定論は、イスラエルの新しい歴史家たちによる研究などナクバに関する学問が発展しているにもかかわらず、依然として存在している。

歴史記述

パレスチナ社会ではナクバによって史料が散逸し、地域の分断が起きたため、ナクバの公的記録をまとめることが困難となっている。そのためオーラル・ヒストリーの手法がとられている[39]。1970年代にパレスチナのオーラル・ヒストリーの発表が始まり、ナクバによる追放や難民化について記述した[注釈 6][40]。ヨルダン川西岸地区のビルゼイト大学にはパレスチナ社会研究・記録センター(CRDPS)が設立された。同研究所では「破壊されたパレスチナ人村」というシリーズが出版され、イスラエル建国によって破壊された22村落の証言を集めた[39][41]。かつてのパレスチナの村落の記録として歴史的パレスチナの地図を使い、難民との共同執筆をおこなった。証言を集める過程で、村ごとの話し方が異なるという多様性も明らかになった。また、パレスチナとイスラエルの間で1948年の解釈をめぐる論争が起きており、論争での対抗戦略としても研究がなされた[注釈 7][43]。同研究所の活動は、ビルゼイト大学のパレスチナ史料集積プロジェクトに引き継がれた[44]

ロシャル・デイヴィス(Rochalle Davis)はガザ地区、西岸地区、イスラエル領、ヨルダン、シリア、レバノンの難民によって書かれた村落の歴史を120冊以上収集して内容を論じている[45]。インターネットの普及でパレスチナ難民のコミュニケーションが増え、アメリカではWebサイト「記憶されるパレスチナ」が設立され、305村落についての証言を公開した[注釈 8]。レバノンではWebサイト「ナクバ・アーカイヴ」がレバノンの難民キャンプの証言を公開している[注釈 9][46]。シリアではダール・シャジェラ(本の出版社)がパレスチナ人のオーラル・ヒストリー収集事業を行なっていたが、シリア政府軍によるヤムルーク難民キャンプ英語版への攻撃で代表のガッサン・シハービーが死亡した[47]

イスラエルの姿勢

イスラエルにおけるナクバの扱いは、時代や立場によって多様であるが、政府の公式な立場は歴史的にナクバの存在やイスラエルの責任を否定する傾向が強かった。

伝統的見解と政府の立場

イスラエル建国後の数十年間、主流(「伝統的」)歴史家や政府の公式見解は、パレスチナ難民の発生はイスラエルによる追放ではなく、アラブ諸国指導者が戦闘終了後の帰還を約束して住民に一時退避を呼びかけた結果の「自主的避難」であると主に主張していた[48]。この見解では、1948年の戦争はアラブ側の侵攻に対する防衛戦争であった側面が強調される。

また、イスラエル国防省は、地域に存在するナクバの証明となりうる歴史的記録文献を組織的に密かに取り除き隠匿する作業を行っていたと報じられている[49]

イスラエルには、約2百万人の「イスラエルのアラブ市民」と呼ばれるパレスチナ人が暮らしているが[50]、2009年、ネタニヤフ内閣は、アラビア語のナクバという言葉をアラブ系学校の教科書での使用を禁止した[51]。それに先立って、ベンヤミン・ネタニヤフ首相は、アラブ系の学校での「ナクバ」という言葉の使用は、イスラエルに対するプロパガンダの拡散と同等であると述べていた[51]。2011年には、ナクバの日を記念する行事を行う団体に対し、政府からの公的資金を停止できる権限を財務大臣に与える法案(通称「ナクバ法英語版」)が可決されている。

「新しい歴史家」による見直し

1980年代後半になると、イスラエルの公文書へのアクセスが部分的に可能になったことを背景に、「新しい歴史家」と呼ばれるイスラエル人学者たち(ベニー・モリス英語版イラン・パッペアヴィ・シュライム英語版ら)が登場した。

彼らはイスラエルの公文書を用い、従来の「自主的避難」論を実証的に覆し、イスラエル軍(およびその前身組織)によるパレスチナ人住民の直接的な追放や、デイル・ヤシーン事件以外にも複数の虐殺行為が存在したことを明らかにした。

ただし、「新しい歴史家」の間でも見解は一枚岩ではない。例えばベニー・モリスは、追放は行われたものの、それはシオニスト指導部による事前の全体計画に基づくものではなく、戦争の過程で局所的な判断や軍事的必要性から行われたと結論付けている[52]。一方でイラン・パッペは、これをシオニズムのイデオロギーに根差した計画的な「民族浄化」であったと断定している[53]

これらの研究にもかかわらず、イスラエルの主流な教育現場ではナクバの事実は依然として十分には教えられておらず、「『アラブ人はイスラエル軍を恐れて逃げただけ。私たちが追い出したんじゃない』と教わった」というイスラエル人の証言も存在する[54]


関連項目

脚注

参考文献

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