ニェジェーリンの大惨事
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新型ミサイルの試験飛行のため、発射台で準備が行われている間に誤って第2段ロケットエンジンが着火した。結果として地上で大規模な爆発に至り、多くの軍人や技術者等が犠牲となった。死者数について公式の調査報告書では74名(軍人57名・民間人17名)となっているが、バイコヌールにある犠牲者墓地には軍人84名が埋葬されており[注釈 1]、126名(軍人76名・民間人50名)が死亡したとする文献もある[1]。
災害の規模にもかかわらず、この事故のニュースは長年にわたり隠蔽され、ソ連政府も1989年まで認めていなかった。初代ソ連戦略ロケット軍総司令官でR-16発射計画の責任者兼バイコヌール宇宙基地所長だったミトロファン・ニェジェーリン[注釈 2]砲兵総元帥もこの事故に巻き込まれて犠牲となったため、このような名前が付いた。
背景
ロケット科学者のミハイル・ヤンゲリ率いる第586設計局は1956年より、従来のR-7よりも大幅に軽量かつ即応性・整備性に優れ、射程はR-7と同等の性能を有する新型ICBMであるR-16の開発を進めており、1961年に初号機を打ち上げる予定としていた[2]。この開発が予定より早く進行したことからニェジェーリンは、1960年11月7日の10月革命43周年記念日までにR-16の発射実験を行って成功させることとし、これに伴い地上総合試験(GTV。ソ連においてはダミー機体を用いたリハーサル)は省略され最初から実機を発射することとされた[2]。
こうした状況の中R-16試作機は1960年9月26日にバイコヌールへ到着し、10月21日までに発射台(本件実験のために新規建設)へ設置された[2]。
事故経過
10月23日
1960年10月23日、発射台に設置されたR-16試作機へ推進剤(酸化剤を硝酸、燃料を非対称ジメチルヒドラジンとしたハイパーゴリック推進剤[注釈 3])が充填された[2]。これらの推進剤は自己着火性と強い腐食性・毒性を有しており、厳重な取り扱いを要した[4][6]。
こうした危険性を踏まえ、打ち上げ手順の中で厳格な安全要件が規定されていたが、11月7日の革命記念日の前までに全試験を終わらせるというニェジェーリンの強い意向により日程が極端に圧迫され、時間短縮のため多数の安全手順が無視された[7]。その一例として、推進剤供給系統にあるバースト・ディスク[注釈 4]は本来、発射シーケンスに従い制御卓から遠隔操作されることとなっていたが、手動で動作させ作動音を直接耳で聞いて開になったかを確認する非常に危険な方法がとられた[8]。
この際、2段酸化剤系統のバースト・ディスクを動作させようとしたところ、電気系統の設計ミスによって1段燃料系統及びガス発生器遮断弁のバースト・ディスクが作動し、燃料漏れと合わさって火災を生じ主配電箱を焼損するという事象が発生した[9][注釈 5]。この事象は直ちにニェジェーリンを議長とする「R-16発射国家委員会」に報告されて議論が行われたが、その結果改修作業を行ったうえでそのまま打ち上げることとされ(1人だけ反対者がいた)、夜通し改修作業が行われた[9]。
10月24日
翌24日朝、前日の事象に対する改修作業が完了しシステムが復旧したと判断されたことから、この日の夕方にR-16試験機を打ち上げることとされた[9]。前日問題となったバースト・ディスクは引き続き手動で動作させるようになっていた[9]。
18時45分(バイコヌール時間)に2段推進剤供給系統のバースト・ディスクを手動で動作させ、配管点検の後機上電源が接続された[9]。その後誘導システムを初期状態にリセットする作業が行われたが、突然プログラマから2段エンジンの点火信号が出され、同エンジンが燃焼を開始した[9]。この2段エンジンからの噴射を浴びて直下にある1段酸化剤タンクが破壊され、続いて2段燃料タンクも損傷したことから燃料と酸化剤が混合され、激しい火災が発生した[10]。
2段エンジンの起動と同時に発射台周辺に設置されたビデオカメラが自動起動されたため、この爆発は詳細な映像記録が残っている[11]。ロケットに近い人々は即座に焼け焦げた。離れた人々は焼け死ぬかまたは燃焼に伴う有毒ガスで死亡した。アンドレイ・サハロフによると、エンジンが火を噴くと付近にいたほとんどの者はすぐに周囲めがけて駆け出したが保安フェンスに阻まれてしまい、燃え盛る燃料の火球に呑み込まれた。
事故発生時の発射台には陣頭指揮を執っていたニェジェーリン以下作業員約100名と見物人約150名がいたが、公式報告書によるとニェジェーリンを含む74名(軍人57名・民間人17名)が死亡した(先述した通り死者数については軍人84名+民間人とする説、軍人76名+民間人50名の126名とする説もある)[12][1]。死亡者の中にはR-16の誘導システムを開発した第692専門設計局のボリス・コノプリョフも含まれていた[12]。なおヤンゲリは事故当時、たまたま場を外して数百メートル離れた掩蔽壕の裏で喫煙していたため助かったが、それでも火傷を負った[13][14]。
その後

この事故の影響により、ボストーク計画に関する打ち上げ日程が1ヶ月後ろ倒しとなった[12]。
10月24日の出来事に関しては、ニキータ・フルシチョフによりすぐに箝口令が敷かれた。報道発表では、ニェジェーリンは飛行機事故で死んだとされ[12]、他の技術者らの遺族も犠牲者は同じ原因で死んだと言うよう、当局から指示された。フルシチョフもまた、レオニード・ブレジネフを事故調査委員会の委員長に任じて現場に向かうよう命じた。委員会は予定よりもっと多くの人々が当時発射台周辺にいたことを突き止めた。本来それらの人々は現場から離れた安全な掩蔽壕の中にいる筈だった。
フルシチョフの息子であるセルゲイによると、ブレジネフも「委員会は誰も処罰しない」と主張し、「罪のある者は既に罰された」からと説明したということである。
その後、ヤンゲリはフルシチョフから「しかしどうしてお前は助かったのか?(А ты почему остался жив?)」と尋ねられ、震え声で「煙草を吸うため外していました。これは全て私の過ちです(Отошел покурить. Во всем виноват я)」と答えたという。後に心筋梗塞を起こし、何か月も休職した[15]。
委員会が調査報告をまとめた後、R-16の開発は1961年1月に再開され、事故から約1年を経た11月に最初の飛行が成功した。R-16の開発遅延により、ソ連はさらに強力な大陸間弾道ミサイルの開発に駆り立てられ、フルシチョフがキューバに中距離弾道ミサイルの配備を決断するきっかけとなった。事故前には、ヤンゲリは有人宇宙飛行計画の指導者の座をセルゲイ・コロリョフと争う野心を持っていたが、結局R-16の開発に専念するよう指示された。
1960年代前半、バイコヌールの公園に犠牲者の追悼碑が建てられ、現在でも有人飛行の打上げ前にはロシア連邦宇宙局の職員が訪れている[16]。また、3年後の10月24日にもICBMの火災事故で8人が死亡したため、毎年10月24日は、バイコヌール宇宙基地やロシアの宇宙開発の現場では犠牲者を追悼する日となっている[17]。
公式発表
報道発表では、ニェジェーリンは「非公開の任務中に起きた航空機事故」で死亡したと伝えられた[18][19]。イタリアの通信社コンティエンターレが、匿名の情報源からの話として12月8日に初めて、ニェジェーリン元帥ほか100名がロケットの爆発で死亡したと報じた[20]。ガーディアンも1965年10月16日に、捕えられたスパイのオレグ・ペンコフスキーがミサイル事故の詳細を認めたと報じ[21]、亡命した科学者のジョレス・メドヴェージェフが1976年にイギリスの週刊誌ニュー・サイエンティストにさらなる詳細を語った[22]。しかし、ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカに伴う報道の自由化が進んだ1989年4月16日に週刊誌『アガニョーク』が記事を掲載するまで、ソ連政府は公式にはこの事故を認めていなかった[23]。
