ニガリ渓谷

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ニガリ
18世紀フランスの地理学者ダンヴィユフランス語版が1794年に作成した地図。当時オスマン帝国が支配していたニガリ渓谷が Liganis Khevi という名称で記されている。
地理
州/地域

ニガリジョージア語: ნიგალიジョージア語ラテン翻字: Nigaliトルコ語: Nigali)あるいはニガリ渓谷(ニガリけいこく、ジョージア語: ნიგალის ხევიジョージア語ラテン翻字: Nigalis Kheviトルコ語: Nigali Vadisi)は、チョロヒ川の下流に位置する歴史的地域である。現在はトルコジョージアの間で分割されている。かつてはリガニジョージア語: ლიგანიジョージア語ラテン翻字: Ligani)あるいはリヴァナジョージア語: ლივანაジョージア語ラテン翻字: Livana)、リヴァネトルコ語: Livâne)としても知られ、音位転換を経て現在の呼称となった[1]

ニガリの名が初めて史料に登場するのは7世紀である。アナニア・シラカツィアルメニア語版の作とされる7世紀のアルメニアの地理書『アシュハラツイツアルメニア語版』において、コルキスの地方の一つとして初めて言及された[2]。ジョージアの年代記(『マティアネ・カルトリサジョージア語版』、『バグラティオニ家の伝記と事績』)やギオルギ・メルチュレジョージア語版の『ハンズタのグリゴルの生涯ジョージア語版』などの史料において、ニガリはメスヘティジョージア語版の一部として言及されている。これらの史料によると、ムツクヴァリ上流域やチョロヒ川流域を含むメスヘティ地方は、8世紀から10世紀にかけて9つの地理的な区分(サムツヘジョージア語版ジャヴァヘティジョージア語版アルタアニアチャラジョージア語版、ニガリ、シャヴシェティジョージア語版クラルジェティジョージア語版タオスペリジョージア語版)に分かれていた[3]。8世紀、ニガリはジョージアのバグラティオニ家の領地となった。北東はアチャラジョージア語版、東はシャヴシェティジョージア語版、南はクラルジェティジョージア語版に接していた[1]。中世のジョージアの文献では「ニアリ」という名も見られるが、これはおそらくニガリの転訛であると考えられている[4]。18世紀初頭のジョージアの歴史家ヴァフシティ・バグラティオニは、この地域を「リガニ」と呼び、アルトヴァニ(現在のアルトヴィン)に至るまでのチョロヒ川両岸をその範囲とした[5][6]。1530年、オスマン帝国がニガリの一帯を征服した。オスマン帝国は「リヴァネ」という名でサンジャク (行政区分)英語版(県)およびカザ英語版(郡)を設置した[7]。行政上はマチャヘルトルコ語版地区に属していた[8]

1878年、ベルリン条約により、ニガリはオスマン帝国からロシア帝国に割譲され、バトゥミ州ロシア語版アルトヴィン地区ロシア語版に編入された。第一次世界大戦(1914年–1918年)と短命なジョージア民主共和国(1918年–1921年)を経て、ニガリは1921年のモスクワ条約カルス条約に基づき、トルコ共和国グルジアSSRに分割された[1][9]

現在の区分

脚注

参考文献

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