Wikiwand AI

ニガリ渓谷

From Wikipedia, the free encyclopedia

ニガリ
18世紀フランスの地理学者ダンヴィユ(フランス語版)が1794年に作成した地図。当時オスマン帝国が支配していたニガリ渓谷が Liganis Khevi という名称で記されている。
地理
国
州/地域

ニガリ(ジョージア語: ნიგალი、ジョージア語ラテン翻字: Nigali、トルコ語: Nigali)あるいはニガリ渓谷(ニガリけいこく、ジョージア語: ნიგალის ხევი、ジョージア語ラテン翻字: Nigalis Khevi、トルコ語: Nigali Vadisi)は、チョロヒ川の下流に位置する歴史的地域である。現在はトルコとジョージアの間で分割されている。かつてはリガニ(ジョージア語: ლიგანი、ジョージア語ラテン翻字: Ligani)あるいはリヴァナ(ジョージア語: ლივანა、ジョージア語ラテン翻字: Livana)、リヴァネ(トルコ語: Livâne)としても知られ、音位転換を経て現在の呼称となった[1]。

ニガリの名が初めて史料に登場するのは7世紀である。アナニア・シラカツィ(アルメニア語版)の作とされる7世紀のアルメニアの地理書『アシュハラツイツ(アルメニア語版)』において、コルキスの地方の一つとして初めて言及された[2]。ジョージアの年代記(『マティアネ・カルトリサ(ジョージア語版)』、『バグラティオニ家の伝記と事績』)やギオルギ・メルチュレ(ジョージア語版)の『ハンズタのグリゴルの生涯(ジョージア語版)』などの史料において、ニガリはメスヘティ(ジョージア語版)の一部として言及されている。これらの史料によると、ムツクヴァリ上流域やチョロヒ川流域を含むメスヘティ地方は、8世紀から10世紀にかけて9つの地理的な区分(サムツヘ(ジョージア語版)、ジャヴァヘティ(ジョージア語版)、アルタアニ、アチャラ(ジョージア語版)、ニガリ、シャヴシェティ(ジョージア語版)、クラルジェティ(ジョージア語版)、タオ、スペリ(ジョージア語版))に分かれていた[3]。8世紀、ニガリはジョージアのバグラティオニ家の領地となった。北東はアチャラ(ジョージア語版)、東はシャヴシェティ(ジョージア語版)、南はクラルジェティ(ジョージア語版)に接していた[1]。中世のジョージアの文献では「ニアリ」という名も見られるが、これはおそらくニガリの転訛であると考えられている[4]。18世紀初頭のジョージアの歴史家ヴァフシティ・バグラティオニは、この地域を「リガニ」と呼び、アルトヴァニ(現在のアルトヴィン)に至るまでのチョロヒ川両岸をその範囲とした[5][6]。1530年、オスマン帝国がニガリの一帯を征服した。オスマン帝国は「リヴァネ」という名でサンジャク (行政区分)(英語版)(県)およびカザ(英語版)(郡)を設置した[7]。行政上はマチャヘル(トルコ語版)地区に属していた[8]。

1878年、ベルリン条約により、ニガリはオスマン帝国からロシア帝国に割譲され、バトゥミ州(ロシア語版)のアルトヴィン地区(ロシア語版)に編入された。第一次世界大戦(1914年–1918年)と短命なジョージア民主共和国(1918年–1921年)を経て、ニガリは1921年のモスクワ条約とカルス条約に基づき、トルコ共和国とグルジアSSRに分割された[1][9]。

現在の区分

脚注

参考文献

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks