タオ (歴史的地域)
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タオ(ジョージア語: ტაო、ジョージア語ラテン翻字: Tao)は、ジョージアの歴史的地域であり、より広範な歴史的領域であるタオ=クラルジェティの一部を構成する。地理的には、タオはチョロヒ川の中流域に位置し、古代から中世にかけてのアルメニア王国の歴史的な州の一つであるタイク州(アルメニア語版)に対応する。現代の行政区画では、トルコのアルトヴィン県ユスフェリ(トルコ語版)地区、およびエルズルム県の北部(ウズンデレ(トルコ語版)地区、オルル(トルコ語版)地区、オルトゥ(トルコ語版)地区、シェンカヤ(トルコ語版)地区、ナルマン(トルコ語版)地区、トルトゥム(トルコ語版)地区)と大部分が重なっている。
タオという名称は、古代にこの地域に居住していた、「タオチ(ジョージア語版)」として知られる古代部族の民族名を留めている[1][2]。
タオの名称のより古い語形は Diauehi(ジョージア語版)(ディアウエヒ/ディアオヒ)あるいは Daiaeni(ダイアエニ)として現れる。これらの名称は、紀元前12世紀から紀元前9世紀の中アッシリア時代の楔形文字碑文や、紀元前9世紀から紀元前8世紀のウラルトゥ語の碑文において確認されている[3][4]。
紀元前760年代以降、ディアウエヒという名称は書記史料から姿を消した。しかし、ディアウエヒの名は、ジョージアの伝承における「タオ」、ギリシアの文献における「タオチ(ジョージア語版)」、そしてアルメニアの史学史における「ダイク」あるいは「タイク(アルメニア語版)」など、後世の民族名や地名に生き残ったと広く考えられている[5]。
歴史
先史時代から古代

ニコライ・マルの研究によると[6]、もともとチョロヒ川流域とその右岸の支流を含む非常に広い地域をチャン族が占有していたが、チャン族は最初にアルメニア人によって、後にジョージア人によってその土地から一時的に追い出された[7]。イヴァネ・ジャヴァヒシヴィリによれば、古代からタオと隣接するスペリ(ジョージア語版)の地域には、ラズ人やカリベス人(ジョージア語版)といったジョージア系の部族が居住していた[8]。一方、イーゴリ・ディアコノフ(ロシア語版)は、タオの最古の住民はもともとフルリ語を話す人々であり、後に徐々にカルトヴェリ語化(より正確にはチャン語化)したという説を提唱した。ディアコノフによれば、タオの地域はその後、アルメニア人とチャン族の交流が活発な地域になった[4]。

タオの地域とその住民、特にチャン族、タオチ族、そしてファシア人(ジョージア語版)については、紀元前4世紀に「一万人の軍勢」とともにこの地域を通過したクセノポンの著作『アナバシス』に記されている。『アナバシス』の記述に基づき、ロバート・エドワーズ(ロシア語版)は、タオチ族はオルトゥ(トルコ語版)、ナルマン(トルコ語版)、トルトゥム(トルコ語版)の渓谷に居住していた可能性が高いと結論付けた[9]。当時、タオチ族は、カルドゥキ人(クルド語版)やカリベス人(ジョージア語版)と同様に、ペルシアの支配を受けない自由な民であったが、後にイベリア王国の支配下に入った[10]。
キリル・トゥマノフによれば、紀元前4世紀から3世紀までに、タオの地域は既に古代ジョージアのイベリア王国の一部となっていた[11][12]。ストラボンの『地理誌』(XI.14.5) によれば、紀元前2世紀初頭に、タオの地域はアルタクシアス朝アルメニア(アルメニア語版)がイベリア王国から奪取した。ストラボンは特に「パリュアドレス山の山麓地帯」(παρώρεια τοῦ Παρύαδρου) に言及しているが、現代の研究では、一般にこの地域を歴史的なタオの地域と同定している[10][13]。
4世紀後半から8世紀: マミコニアン家
古代末期頃に、タオはアルメニアの有力貴族であるマミコニアン家(アルメニア語版)の領地となった。ロバート・エドワーズ(ロシア語版)によれば、マミコニアン家はチャン族にルーツを持つ、カルトヴェリ系の出自であるとされる[14]。キリル・トゥマノフも同様に、マミコニアン家がチャン族ないしラズ人のいずれかに起源をもつと示唆している[15]。時代の経過とともに、チャン族はマミコニアン公領に吸収されていった[16]。タオを統治したマミコニアン家の分家の居城は「エラハニ」の要塞にあったとされるが、「エラハニ」の正確な場所は明らかになっていない[17]。
アルメニアの史料によると、マミコニアン家の歴史は4世紀初頭以降まで辿ることができる[18]。マミコニアン家はアルメニアに統合され、タオの地域はアルメニアの政治圏に段階的に組み込まれた。これは軍事同盟、王朝間の婚姻、そしてアルメニアの王朝から与えられた世襲職の獲得を通じて行われた[14]。
ニーナ・ガルソヤン(英語版)によれば、タオ、あるいはタイクと呼ばれる地域(タオ=タイク)におけるキリスト教の布教は、開明者グレゴリオス(アルメニア語版)の時代には既に行われていた可能性がある[1]。5世紀の歴史家アガタンゲロス(アルメニア語版)の著作のアラビア語訳によると、グレゴリオスがバシアニ(ジョージア語版)、スペリ(ジョージア語版)、コラ(ジョージア語版)に司教を派遣した様子が詳述されている。後の解釈では、このコラへの言及はタオの地域まで及ぶと解釈されることもある[19]。しかし、タオ=タイクとコラを単一の地域名でまとめて扱っていたことを示す明確な証拠は、591年の和平に続く6世紀後半のアルメニア史料にのみ見られる[1][注釈 1]。ジョージアの教会伝承によれば、タオにおける最初期の布教活動は、使徒アンデレによるものとされ、アンデレは「カルトリの地」で説教を行ったと言い伝えられている。ジョージアの年代記『カルトリ・ツホヴレバ(ジョージア語版)』によると、アンデレはサムツヘ(ジョージア語版)で奇跡を起こし、そこに聖母マリアのイコンを残した後、タオでの福音伝道の旅を続けたとされる[21]。
ペルシアによる支配と教会の分裂

387年のアルメニア分割の後、タオはペルシア(ササン朝)の勢力圏に入った。そしてタオの西側の境界は、ビザンツ帝国とササン朝の国境地帯として機能した[12]。この国境は単なる政治的な境界であるだけでなく、キリスト教とゾロアスター教の間のイデオロギー的な分断線でもあった[22]。
タオ=タイクは、後にササン朝の属国へと縮小したアルメニア王国の領域内に留まり、その後はマルズバーン(総督)が統治するササン朝領アルメニアに組み込まれた[23]。428年にアルメニアの王統が断絶した後、バグラトゥニ家(アルメニア語版)を最大のライバルとしていたマミコニアン家(アルメニア語版)は、ビザンツ帝国とペルシアのいずれかと交互に同盟を結び、益々独立した外交政策を追求した[24]。
450年、タオはペルシアの支配に対するアルメニア人の蜂起に参加し、アヴァライルの戦い(アルメニア語版)で頂点に達した[10]。タオ=タイクによる反乱の間、ハルディア(トルコ語版)の山岳民は現地タオ=タイクのゲリラ勢力に加わり、ビザンツ国境に向かって進軍するペルシア軍に抵抗した[25][26]。タオ=タイクにおける抵抗運動の指導権はフマヤク・マミコニアン(フランス語版)、アルテン・ガベゲアン(アルメニア語版)、ヴァラズシャプフ・パルニ(アルメニア語版)が掌握した。最終的にこの抵抗運動は、ペルシアの懲罰遠征軍を率いたヴァサク・シウニ(アルメニア語版)によって鎮圧された[25]。

ロバート・エドワーズ(ロシア語版)によれば、アルタクシアス朝(英語版)とアルサケス朝(英語版)の時代、そしてペルシア支配下(c. 387年–591年)の時代には、タオの北西の境界はチョロヒ川まで広がっていた。そして、その地域の住民は主にジョージア系であった可能性が高い[27]。ロバート・H・ヒューセン(英語版)も同様に、マミコニアン(アルメニア語版)領時代におけるタオとコラ(ジョージア語版)は、大部分がジョージア系の住民であったと主張した。一方で、ボグハ(アルメニア語版)とその周辺地域は、主にアルメニア系であった可能性を述べている[28]。エドワーズとヒューセンは両者とも、タオ=タイクをアルメニア人のみ、あるいはジョージア人のみの地として描く、民族主義的な解釈を批判した[14][28]。
555年の第2ドヴィン公会議(英語版)の決議文は、タオ=タイク出身のアルメニア人司教について言及のある、歴史上既知の最後の文書となっている。ニコロズ・アレクシゼ(wikidata)によれば、6世紀後半から7世紀初頭までに、タオはカルケドン派の伝統を採用し、ペルシア領アルメニアのアルメニア使徒教会の権威下から離脱した。この事実は、この時期のタオの地域に対して、ジョージア正教会の管轄権が及んでいた可能性を示唆している[29]。
ビザンツ帝国の影響とアラブの侵略

572年から591年にかけてのビザンツ=ペルシア戦争の結果、ビザンツ皇帝マウリキウスはアルメニアを再編し、591年にタオをビザンツ帝国の支配下に置いた。キリル・トゥマノフによると、タオ=タイクは「奥アルメニア(ポルトガル語版)」として知られる、ビザンツ帝国の属州の一部となった。この「奥アルメニア」は、3つの地区で構成された[30]。しかし、このトゥマノフの見解は普遍的に受け入れられているわけではない。ロバート・エドワーズ(ロシア語版)は、タオ=タイク自体が正式に「奥アルメニア」と改称された明確な証拠はないと主張している[16]。アメリカの歴史学者ニナ・ガルソイアン(英語版)は、591年の和平後のアルメニア側の史料が、タオ、コラ(ジョージア語版)、ボグハ(アルメニア語版)を「タイク」という共通の名称で、単一の地域として扱っている最も古い証拠を提供していると指摘している[1]。さらに、ロバート・H・ヒューセン(英語版)が述べているように、ビザンツ帝国による再編以前は、コラはタイクの不可欠な一部としてではなく、独立した公国領として存在していた可能性がある[31][注釈 1]。
その後、602年から628年にかけてのビザンツ=ペルシア戦争において、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスは軍事遠征を行った。この結果、イベリア王国はチョロヒ川下流域のニガリやムルグリ(ジョージア語版)といった郡を含む、クラルジェティ(ジョージア語版)の沿岸地域を失った。また、イベリア王国は「トゥハリシ(アルメニア語版)の地」も失い、トゥハリシはタオに組み込まれた[32]。
少なくともタオの一部は、6世紀にマミコニアン家(アルメニア語版)の分家に采領として与えられたと考えられている[33]。6世紀から7世紀にかけて、タオ東部を拠点とするディマクシアン朝(アルメニア語版)の第二分家はボグハ(アルメニア語版)(またはブハ。ジョージア側の史料ではブガタクリとして知られる)の独立公国を設立した[17]。ボグハの北東には、同名の現地支配者によって統治されるコラ公国が存在していた[1]。マミコニアン家、ディマクシアン家、そしてタオ=タイクの地域における小規模な独立あるいは半独立の封建領主たちは、独自の従士団と旗印を有していた[17]。ゾラナマク(アルメニア語版)(軍員名簿)によると、タオ=タイクは約1,000人の戦士からなる従士団を維持していたとされるが、ゾラナマクはタオ=タイクの地域におけるマミコニアン家の存在を明示的には言及していない[1]。
607年、第3ドヴィン公会議(英語版)はカルケドン公会議と『レオの書簡(英語版)』を非難した。これによってアルメニア教会がカルケドン派を公式に断罪したため、カルケドン派を支持する多くの離反者が、当時イベリアの政治圏内にあったタオへと、あるいはビザンツ帝国へと移住した[34]。アルメニア使徒教会のカトリコス・アブラハム1世(アルメニア語版)の権威に従うことを拒否した主教たちはタオに避難を求めた。タオはペルシア領外であったため、タオに避難した主教たちはドヴィン(アルメニア語版)のカトリコス庁の管轄を逃れることができた。ベルギーの東洋学者ジェラール・ガリット(英語版)によれば、これらの聖職者たちは、アルメニア教会よりもジョージア教会と密接に依存していた可能性がある[35]。
7世紀半ばになると、アラブ人が南コーカサスを征服した。その後、アルメニア首長国(アラビア語版)が設立され、同国は行政上4つの地域に分割された。アラビア語の文献では、タオはシラージュ・タイール[注釈 2]として知られ、アルメニア首長国の行政区画であるアルメニア3区(主にアルメニア地域)あるいはアルメニア2区(主にジョージア地域)の一部を形成した。7世紀半ばから772年まで、マミコニアン家はアラブ・カリフ制の宗主権下でタオを支配した[37]。7世紀のアラブの侵略は、伝統的に親ビザンツ派であったマミコニアン家の崩壊を決定付けた。マミコニアン家は最終的に、領地の大部分と政治的影響力を失った[15]。

アルメニアのカトリコスであるネルセス3世(アルメニア語版)は、654年にドヴィン(アルメニア語版)を離れた後、タオ=タイクで6年間の亡命生活を送った[38]。ビザンツ帝国の統治下では、バナ大聖堂(アルメニア語版)とイシュハニ修道院(アルメニア語版)という、2つの大きな宗教建造物が建築された。イシュハニ修道院の聖堂は、ネルセス3世自らが建設を指示したものである[39]。バナ大聖堂とイシュハニ修道院はともに、アラブ人の侵略によって破壊された。9世紀初頭、2人のジョージア人聖職者(バナのクヴィリケ(ジョージア語版)、イシュハニのサバ(ジョージア語版))がバナとイシュハニの聖堂を修復し、主教座聖堂とした[40]。
8世紀、タオ=タイクの地域は2度にわたり荒廃した。1度目は735年、ウマイヤ朝のマルワーン2世によるジョージア侵攻(ジョージア語版)によるものであり、2度目は774年から775年にかけての反アラブ蜂起によるものであった。反アラブ蜂起は失敗に終わり、マミコニアン家は壊滅的な打撃を受けた。これによりマミコニアン家はタオを失い、バグラトゥニ家(アルメニア語版)がタオの大部分を奪った。またタオの一部はイベリア公国(英語版)の手に渡った[41]。
770年代、アショト4世・バグラトゥニ(アルメニア語版)はシラクとアボツィ(ジョージア語版)を征服し、タオへと進出した。アショト4世はタオでカルマヒ要塞(ジョージア語版)を建設し、そこを自身の居城とした[19]。この時期、タオ=タイク地方は依然としてビザンツ帝国とアッバース朝の勢力が拮抗する境界地域であり、紛争が絶えなかった。フランスの東洋学者ルネ・グルッセによれば、アショト4世はタオ=タイク地方にアギオヴィト(アルメニア語版)やアルシャルニク(アルメニア語版)からの入植者を定住させることで、国境地帯のアルメニア化に貢献した[42]。また同時期に、アルメニアのグヌニ家(アルメニア語版)もタオに入植した[41][43]。
8世紀から10世紀: イベリア・バグラティオニ家の台頭
キリル・トゥマノフによれば、772年以降、当時マミコニアン家(アルメニア語版)に属していたタオ=タイクは2つの地域に分割された。南部の上タオ地方はバグラトゥニ家(アルメニア語版)が獲得し、北部の下タオ地方はアシスポリ(アルメニア語版)とともにグアラミド家(ジョージア語版)に渡った[44]。下タオ地方は786年から807年頃にかけて、上タオのアシスポリとともにイベリアのバグラティオニ家の支配下に入った。そして813年までに、タオはバグラティオニ家によって完全に再統合された。この時点から、タオの地域はアルメニアの政治圏からジョージアの政治圏へと移行した[45]。
8世紀後半のアラブによる侵攻の結果、グアラミド家などジョージア人の地方王朝は滅亡し、カルトリ中心部はアラブの直接支配下に置かれた。イベリア公国(英語版)は解体され、独立した政治体が分立した。アラブの圧力から逃れたイベリア公アショト1世(ジョージア語版)はジョージア南西部のクラルジェティ(ジョージア語版)に避難し、アラブの占領に対抗する拠点としてタオ=クラルジェティ公国を建国した。アショト1世はビザンツ皇帝からクロパラテス(ギリシア語版)の称号を授かり、ビザンツ帝国の支援を受けてタオ=クラルジェティの地域の政治的・文化的復興を主導した。 アショト1世の治世以降、修道院の建設が急速に拡大した。タオ=クラルジェティにおける修道院建設の動きはハンズタのグリゴル(ジョージア語版)の活動に始まり、アショト1世の後継者たちの世代でさらに大きな規模に達した。聖人伝『ハンズタのグリゴルの生涯(ジョージア語版)』には、ジョージア人が再入植した当時のタオは、大部分が荒廃した地として描かれている。この記述の解釈にあたり、ロシアの歴史学者ヴィアダ・アルチュノワ=フィダニャン(ロシア語版)は、タオのジョージア人修道士たちはアルメニア人住民に囲まれており、廃墟となっていたアルメニア修道院の跡地に最初期のジョージア修道院が建設されたと主張した。アルチュノワ=フィダニャンの解釈に対しては、ジョージア出身の歴史学者ヴァフタング・ジョバゼ(ジョージア語版)が異論を唱えている。ジョバゼによると、該当の記述はアラブ人の侵略による荒廃を示しており、ハンズタのグリゴルが修道院を建設するための労働者確保に苦労したと報告するほど深刻な人口減少が起きていたと指摘した[6]。
- 963年から973年の間に建立された、オシュキの洗礼者ヨハネ聖堂(ジョージア語版)
- 10世紀に建設された、オトフタ・エクレシア(ジョージア語版)の聖堂の遺構
アショト1世の死後、タオ=クラルジェティの公国は、バグラティオニ家の複数の家系に分割された。時間の経過とともに、バグラティオニ家はタオ系とクラルジェティ系に別れ、タオ系は後にさらに細分化した。タオ=クラルジェティのバグラティオニ家は、ジョージア固有の称号に加え、クロパラテス(ギリシア語版)、マギストロス(ギリシア語版)、アンティパトス・パトリキオス(英語版)といったビザンツ帝国の高位の称号も保持していた。888年、タオ系のアダルナセ4世(英語版)が王権を復活させ、メペ(王)として戴冠した。これ以降、「ジョージア人の王」という称号がタオ=クラルジェティのバグラティオニ家の間で主流になった。一方、ビザンツ帝国との関係においてはクロパラテスの称号が引き続き特に重要な意味を持ち続けた。
グルゲン2世(英語版)の死後、上タオ系の年長家系は徐々に断絶し、その領地は下タオ系に移された。タオのダヴィト3世は、この家系の最も著名な代表者として台頭した。
11世紀から12世紀: ジョージア=ビザンツ戦争とトゥルクマーンの侵略
タオのダヴィト3世の死後、ビザンツ皇帝バシレイオス2世はジョージアのバグラト3世と和解し、両者はタオに関する合意を締結した。その結果、タオの南部はビザンツ帝国の支配下に入り、北部にあたる下タオはバグラト3世の領有下に留まった。この分割は、ジョージアの政治的中心地とエリート層が北へと移動する要因となった[46]。
これらの領土を統合したバシレイオス2世は、テマ・イベリア(ギリシア語版)を設置した。テマ・イベリアの正確な設置時期は不明であるが、一般的には1001年から1022年の間とされる。1022年は、皇帝バシレイオス2世が1014年から1023年にかけてのビザンツ=ジョージア戦争(英語版)を経て、タオを最終的に確保した時期である[47]。ジョージア王ギオルギ1世は奪還を試みて遠征を行ったが失敗に終わり、上タオと下タオはともにビザンツ帝国の完全な支配下に入った。その後も、ジョージアの王たちは1001年、1004年、そして1021年から1022年にかけて、何度もタオの奪還を試みた。タオの地はビザンツ帝国の統治下となったが、新たな軍事行政下でジョージア人が当初から抑圧されていたという証拠はない[48]。
1034年、ジョージア王バグラト4世は、下タオの大部分を奪還した[48]。1039年、強力な貴族であったクルデカリ公国(ジョージア語版)リパリト4世(ジョージア語版)が反乱を起こし、ビザンツ帝国の支援を受けて一時的にタオを占領した。しかし、リパリト4世は王党派の貴族スラ・カルマヘリ(ジョージア語版)によって捕らえられ、バグラト4世に引き渡された[49]。
ビザンツ帝国の支配下において、タオの防衛は正規の守備隊に加え、地元住民たちも防衛の任務に当たった。住民には軍役の見返りとして、課税を免除された公有地が与えられていた。しかし、1053年頃に皇帝コンスタンティノス9世モノマコスが、約5万人と言われた通称「イベリア軍」を解体し、軍役の代わりに金納による納税を課したことで、この体制は崩壊した[48]。このような措置は、地元住民のビザンツ帝国に対する不満を増大させる一因となった。
テマ・イベリアの末期は、タオ、バシアニ(ジョージア語版)、カルスの地域で構成されていた。1064年、セルジューク朝のスルタン・アルプ・アルスラーンはジョージア侵攻(英語版)を行い、軍勢を率いてタオやパナスケルティ(ジョージア語版)の地域に進出した[50]。1074年、ビザンツ帝国のグリゴリオス・パクリアノス(ギリシア語版)が東方軍総司令官を辞任し、テオドシオポリス、オルトゥ(トルコ語版)、カルス、ヴァナンド(アルメニア語版)、カルニポリ、そしてタオの一部など複数の領土を、ジョージア王ギオルギ2世に譲渡した。1075年までに、これらの地域からトゥルクマーンの部隊はほぼ一掃された。
13世紀から16世紀: ジョージア王国およびサムツヘ公国の時代
一部の歴史学者は、タオ公国の形成をジョージアのバグラト4世の治世と結び付け、ヴァチェ・カリチスゼ(ジョージア語版)を初代のエリスタヴィ(公)と同定している。しかし、ジョージアの歴史学者ミヘイル・バフタゼ(wikidata)はこの見解に賛同しておらず、当時のタオの一部はジョージア王(バグラト4世)の直接支配下に残っていたと主張している。またバフタゼは、11世紀の史料で確認されているタオ内のトゥハリシ公国(ジョージア語版)の存在の可能性を排除していない[51]。
南部である上タオの地域は、相当数のジョージア人の住民を抱えていたにも関わらず、アルトゥク朝やエルズルムのセルジューク朝(ルーム・セルジューク朝の分家政権)の支配下に置かれることがあった。しかしながら、この地域で権力を握っていたジョージア人の貴族たちは、バグラティオニ家への忠誠を宣言していた。1124年、ダヴィト4世はセルジューク朝に対する遠征において、タオ南部(上タオ)に進出した。その際、ハフリ修道院(ジョージア語版)にあった三連祭壇画(ジョージア語版)をゲラティ修道院へと移した[52]。
1191年、タマル女王の治世中、タオの貴族グザン(ジョージア語版)が、ユーリー・ボゴリュブスキー(ロシア語版)による反乱に加わった。反乱軍が敗北した後、ザカリア・パナスケルテリ(ジョージア語版)がタオにおける最初のエリスタヴィ(公)に任命された[51]。タオ公国は1190年代から1460年代まで存続した。タオのエリスタヴィとして知られている人物には、ザカリア・パナスケルテリ(12世紀後半)、タカ・パナスケルテリ(ジョージア語版)(13世紀末–14世紀初頭)、ザザ・パナスケルテル=ツィツィシヴィリ(ジョージア語版)(15世紀)がいる[51]。13世紀初頭、バシアニの戦い(ジョージア語版)でジョージアがルーム・セルジューク朝のスライマーン2世(ペルシア語版)に勝利すると、ハフリ修道院(ジョージア語版)、オシュキ修道院(ジョージア語版)、バナ大聖堂(ジョージア語版)が解放された[53]。
モンゴルのジョージア侵攻とジョージア国家の弱体化に伴い、アイユーブ朝、ルーム・セルジューク朝、そしてアフラト(英語版)の統治者たちが、タオの支配権を巡って争った。13世紀後半以降、タオの地域はサムツヘ公国(ジョージア語版)の一部となった。侵攻してきたトゥルクマーンに対抗するため、サムツヘのエリスタヴィであるイヴァネ1世・ジャケリ(ジョージア語版)はパナ(トルコ語版)の平原でトゥルクマーン軍を撃破した。14世紀初頭、アザト=ムーサのジョージア侵攻(英語版)に対し、サムツヘ公ベカ1世・ジャケリ(ジョージア語版)が決定的な勝利を収めた[53]。エリスタヴィのタカ・パナスケルテリ(ジョージア語版)は少数の部隊を率いてトルトミ要塞(ジョージア語版)付近に陣取り、敵軍に抵抗したことで名を馳せた。14世紀以降、タオは再統一されたジョージア王国の一部となった。このタカ・パナスケルテリの孫と考えられている同名のタカは、1401年のティムールのジョージア侵攻(ジョージア語版)に抵抗し、トルトミ要塞に立てこもった。
1466年、白羊朝のスルタン・ウズン・ハサンは聖戦を宣言して、ジョージアに対する軍事遠征を開始した。この遠征中にタオは侵攻を受け、難攻不落のサマガル要塞やトルトゥム(トルコ語版)周辺の城塞を占領された[6]。15世紀後半にジョージア王国が崩壊した後も、タオの地域はサムツヘ公国(ジョージア語版)の域内に留まった[54]。
16世紀以降
1550年代後半までに、タオを含むサムツヘ公国(ジョージア語版)の西部地域は、カラ・アフメト・パシャが率いたオスマン帝国の遠征の結果、オスマン帝国に組み込まれた[54]。この時期、スレイマン1世(在位: 1520年–1566年)の治世下で、オスマン帝国はタオを新たな行政単位に分割した。トルトゥム(トルコ語版)、マムラヴァン、オルティシ(ジョージア語版)はサンジャク(英語版)(県)として組織され、ハフリはナーヒイェ(英語版)(地区)に指定された。またオスマン当局は、カルスからエルズルム周辺地域を含むタオのキリスト教徒住民の管理を、アルメニア・コンスタンティノープル総主教庁(英語版)の管轄下に置いた。
18世紀、ジョージアの地理学者であり歴史家でもあるヴァフシティ・バグラティオニは、著書『ジョージア王国の記述(ジョージア語版)』の中でタオを詳細に記述し、その境界、地形、農業的特徴を概説した。ヴァフシティ・バグラティオニはタオについて、水に恵まれた山岳地帯として描き、ブドウ園、果実、穀物に恵まれ、集落は谷間や峡谷に集中していると記述した[6]。
1878年、タオの一部、具体的にはオルトゥ(トルコ語版)の村がロシア帝国によって占領され、カルス州(ロシア語版)に組み込まれた[55]。こうした政治的変化の結果、タオのジョージア人住民の多くがトルコの内陸部へと移住させられた。今日、ジョージア語のタオ方言は、パルハリ(ジョージア語版)の渓谷の限られた数の村々にのみ生き残っている。
脚注
注釈
- 1 2 コラに関する地域的な認識は、アルメニアとジョージアの伝承の間で差異がある。オーストリアの歴史学者ブルーノ・バウムガルトナー(ジョージア語版)が指摘するように、アルメニアの著述家は一般にコラの高地をタオ=タイクに属するものと見なしていたが[20]、ジョージアの史料ではコラがタオの一部であると見なされることはなかった。またアメリカの歴史学者ロバート・H・ヒューセン(英語版)は、初期のアルメニア史料においてコラ(またはコグ)は、もともとタオ=タイクの構成地域としては扱われていなかったと指摘している[12]。
- ↑ アッバース朝期のアラビア語地理文献において、タオはシラージュ・タイール(アラビア語: سراج طير)の名で知られていた。この名称は、アルメニア語の地名であるシラクとタイク(タオ)がアラビア語に適応し、混同されたことを反映している。アラビア語における音韻的な歪みにより、中世イスラムの地理学文献では、これら2つの地域はしばしば単一の州として扱われていた[36]。
出典
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