ニコラエ・ティトゥレスク
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| ニコラエ・ティトゥレスク | |
|---|---|
| Nicolae Titulescu | |
ニコラエ・ティトゥレスク(1930年ごろ) | |
| ルーマニア駐英大使 | |
| 任期 1921年12月16日 – 1936年11月1日 | |
| 前任者 | ニコラエ・ミシュ |
| 後任者 | ヴァスィーレ・グリゴルチャ |
| ルーマニア外部大臣 | |
| 任期 1927年11月24日 – 1928年11月9日 | |
| 君主 | ミハイ一世 |
| 前任者 | イオン・I・C・ブラティアーノ |
| 後任者 | ゲオルゲ・ミオネスク |
| 任期 1932年10月20日 – 1934年1月3日 | |
| 前任者 | アレクサンドル・ヴァイダ=ヴォエヴォ |
| 任期 1934年1月10日 – 1934年10月1日 | |
| 任期 1934年10月10日 – 1936年8月28日 | |
| 前任者 | ゲオルゲ・タタレスク |
| 後任者 | ヴィクトル・アントネスク |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1882年3月4日 ルーマニア王国・クラヨーヴァ |
| 死没 | 1941年3月17日(59歳没) カンヌ(ヴィシー・フランス) |
| 墓地 | 聖ニコラエ聖堂 |
| 政党 | 保守派民主党(Partidul Conservator-Democrat) |
| 教育 | パリ大学 カロル一世国立大学 |
| 宗教 | ルーマニア正教会 |
| 受賞 | |
ニコラエ・ティトゥレスク(ルーマニア語: Nicolae Titulescu, 1882年3月4日 - 1941年3月17日)は、20世紀前半のルーマニア王国の政治家・外交官。外務大臣、ルーマニア駐英大使、国際連盟総会議長を務めた。
1882年、クラヨーヴァにて、弁護士の家庭に生まれる。父親の私有地で幼少時代を過ごす。1900年に高校を首席で卒業後、第三共和政時代のフランスに留学し、パリ大学にて奨学金を獲得し、法学部の5年間の課程で法律を学ぶ。論文『Essai sur une théorie des droits éventuels』(『条件付き権利の理論について』)を上梓し、博士号を取得する。この頃、パリにてフリーメイソンに接触する[1]。
1905年、ティトゥレスクはルーマニアに帰国し、ヤシ大学(ro:Universitatea „Alexandru Ioan Cuza” din Iași)の教授となる。1907年、ティトゥレスクは首都のブカレストに移住する。
政治活動
1912年にルーマニアで行われた選挙の後、ティトゥレスクはテイケ・イオネスク(Take Ionescu)に率いられ、保守民主党所属の国会議員となる。5年後、イオン・I・C・ブラティアーノ(Ion I.C. Brătianu)内閣の財務大臣として1919年まで働いた。1918年の夏、イオネスク、オクタヴィアン・ゴガ(Octavian Goga)、トライアン・ヴイア(Traian Vuia)、コンスタンティン・ミレ(Constantin Mille)とともに、パリにて「ルーマニア国家委員会」を設立する。これは挙国一致でルーマニア国民の権利を国際的世論で推進すること(親フランス政策ならびに大ルーマニア主義の推進)を目的とし、ルーマニアが「事実上」の全権大使的な機関として公式に認めたものである。
パリ講和会議に出席したティトゥレスクは、ルーマニア全権代表としてトリアノン条約に調印している。1927年から1936年までルーマニア外部大臣を、1921年から1936年まで駐英大使も務めた。1930年と1931年には国際連盟総会議長に選出されている。小協商やバルカン協商の強化にも尽力した。1935年、ルーマニア芸術協会の名誉会員に選出された[2]。
1921年の初期、ティトゥレスクは、ジュネーブで開かれた国際連盟の会議に、ルーマニア代表として出席する。1930年と1931年には議長に選出された。テイトゥレスクは、国の主権の尊厳、世界中の全ての国々の平等、集団安全保障、大きな国と小さな国とが接している状態でお互いが攻撃し合うのを防いで良好な関係を築くため、平和維持のため、国境の安定を維持するために奮闘した。
1936年6月、エチオピア帝国の皇帝ハイレ・セラシエ1世が「エチオピアがファシスト・イタリアによって侵略され、占領された」と発言した、というイタリア人ジャーナリストによるおどけに対し、ティトゥレスクは大きく反応した。ティトゥレスクはその場で立ち上がり、「À la porte les sauvages!」(「野蛮人は出て行け!」)と叫んだという[3]。