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ニムルド

イラクの遺跡 From Wikipedia, the free encyclopedia

ニムルド(Numrud)は現在のイラクにある、古代アッシリアの都市遺跡である。その場所はメソポタミア北部のニーナワー平野、モースルの南30km、セラミヤ村(Selamiyah)の南5kmにある。ニムルドは、紀元前1350年から紀元前610年頃にかけて、アッシリアの主要都市であった。ニムルドは、ティグリス川と、その支流の大ザブ川と合流する地点から北へ10キロメートルという、戦略的な位置にあった[1]。都市の面積は360ヘクタール[2]、遺跡の範囲は41平方kmにおよぶ。都市の遺跡はイラクのニーナワー県にあるアッシリア人の村、ヌマニヤから1キロメートル以内の場所で発見された。

別名 カラ(Calah), カラ(Kalakh), カルフ(Kalhu)
所在地 イラク、ニーナワー県、アル・ハムダーニーヤ、ヌマーニヤ
地域 メソポタミア
概要 別名, 所在地 ...
ニムルド
アッシュル・ナツィルパル2世の北西宮殿に据えられていたラマッス。2015年に破壊された
ニムルドの位置(近東内)
ニムルド
近東における位置
ニムルドの位置(イラク内)
ニムルド
ニムルド (イラク)
別名 カラ(Calah), カラ(Kalakh), カルフ(Kalhu)
所在地 イラク、ニーナワー県、アル・ハムダーニーヤ、ヌマーニヤ
地域 メソポタミア
座標 北緯36.0553度 東経43.1944度 / 36.0553; 43.1944
種類 古代都市
面積 3.6 km2 (1.4 sq mi)
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アッシリア地方の地図。ニムルドは地図右側の「Kalkhu」(カルフ)と書かれた場所

アッシリアの時代にはカルフ(Kalḫu, Kalchu, Kalkhu)と呼ばれる都市であり、一時はアッシリア帝国の首都でもあった。後のアラブ人は都市の遺跡を、狩人の英雄でありアッシリア地方の強力な王であったニムロドにちなみ、ニムルドと呼んだ。また、ニムルドは旧約聖書に登場する都市カラフ(カラハ、Calah, Kalakh)の場所と同定されている。

紀元前800年までに、ニムルドの都市は人口約75,000人にまで拡大し、当時世界で最も人口の多い都市中心地としての地位を確立した[3]。

ニムルドという名前は、18世紀半ばにカールステン・ニーブールによって現地名として記録された[4][注釈 1]。19世紀半ば、聖書考古学者たちは、創世記10章に記されたニムロドの旅の記述に基づき、アッシリア語でカルフ(聖書のカラフ)という名称を提案した[注釈 2]。

ニムルド遺跡の考古学的発掘は1845年から1879年まで、そして1949年以降も断続的に実施された。多くの重要な遺物が発見され、そのほとんどはイラク国内外の博物館に移された。2013年、英国芸術人文研究評議会は、エレノア・ロブソン氏が指揮する「ニムルド・プロジェクト」に資金提供を行った。このプロジェクトの目的は、古代および現代の都市の歴史を記述し、ニムルド出土の遺物の分布履歴を特定・記録することだった[5]。これらの遺物は、世界中の少なくとも76の博物館(米国36館、英国13館を含む)に所蔵されている[6]。

2015年、テロ組織イスラム国(ISIL)は、この遺跡が「非イスラム的」なアッシリア的性格を持つことから破壊する、と表明した。2015年3月、イラク政府はISILがブルドーザーを用いて発掘された都市遺跡を破壊したと報告した。ISILが公開した複数のビデオには、その作業の様子が映っていた。2016年11月、イラク軍は遺跡を奪還し、その後の訪問者らも、発掘された都市部分の約90%が完全に破壊されていることを確認した[7]。ニムルド遺跡はそれ以来、イラク軍によって警備されている。現在、再建作業が進行中である。

歴史

ニムルドから出土した、門番である人頭有翼獣ラマッスの像、メトロポリタン美術館蔵
チグリス川と大ザブ川に面したカルフの都の範囲。宮殿や神殿が崩れて遺丘(テル)となったテル・ニムルド遺跡は都市南西部に、兵器庫などが遺丘と なったテル・アザル遺跡は都市南東部を占めていた
フェリックス・ジョーンズ(Felix Jones)によるニムルドの平面図[8]。1920年以前。
19世紀に発掘されたこの場所は、A-Eと名付けられた。右下には、20世紀半ばに発掘されたシャルマネセルの砦がある。

カルフは当初、交易路沿いに位置していた初期の商業コミュニティだったが、紀元前13世紀、アッシリア王シャルマネセル1世は、当時の首都アッシュルから北に離れたカルフに第二王宮を築いた。だが、シャルマネセル1世の没後、廃れていき、何世紀にもわたって荒廃していた。

アッシュル・ナツィルパル2世のカルフ

アッシュル・ナツィルパル2世の宮殿から出土した浮彫、大英博物館蔵

紀元前883年から紀元前859年にかけてアッシリアを治めたアッシュル・ナツィルパル2世は、首都をアッシュルからカルフに移すことを決めた。彼は、カルフの塔と城壁の瓦礫の撤去を命じ、新アッシリア帝国の首都建設を開始した。この都市には、歴代の王たちよりも広大な王宮が築かれることになった[9]。数千、数万の人々が市と大宮殿を囲む8kmの長さの城壁建設に従事した。石灰岩に刻まれた石碑が遺跡の各地から出土しており、そこから彼の治世や宮殿、征服事業についての多くが分かる。

アッシュル・ナツィルパルは、全長7.5キロメートルの巨大な城壁、宮殿、神殿、王室の執務室、そして様々な住居に加え、広範囲にわたる遠征で持ち帰った外来植物で満たされた植物園と、おそらく史上初の大規模動物園とも言える動物園も建設した。アッシュル・ナツィルパルの碑文には、首都移転の理由・背景は記されていない。現代の学者たちは様々な説明を提唱しており、例えば、古代からの首都に自らの足跡を残す余地がほとんど残っていなかったためアッシュルに幻滅した可能性、カルフが地域の交易網において重要な位置を占めていたこと、カルフが帝国の中心的な位置にあったこと、あるいはアッシュルの有力な貴族たちからの独立を望んだ可能性などが挙げられている[9][10]。

紀元前864年に行われた盛大な完成式典と盛大な祝宴の様子は、考古学的発掘調査で発見された碑文入りの石碑に記されている。紀元前864年、カルフの建設工事の完了を祝うため、アッシュル・ナツィルパルは盛大な祝典を開催した。一部の学者は、この祝典を世界史上最大の祝宴と評している。この祝典には、新首都の住民16,000人と外国の要人5,000人を含む、69,574人の客が10日間にわたって招かれた。アッシュル・ナツィルパルの碑文によれば、使用された飲食物として、1万羽の鳩、1万個のビールジョッキ、1万個のワイン皮袋など、数え切れないほど多くの品々が記録されている[9][10]。

彼が残した数々の碑文の内容は、以下のようなものがある。「わが王の住まいと、わが主のすべての時の喜びのための、ヒマラヤスギ、イトスギ、ネズ、ツゲ、クワ、ピスタチオ、タマリスクでできた宮殿、わたしはここに築く。白い石灰岩やアラバスターでできた山や海の獣たち、わたしはそれらを作り門に置く。」また碑文には宮殿に蓄えられた戦利品・略奪品の数々のことも書かれている。「銀、金、鉛、銅と鉄、わたしの支配の下に置いた土地からわたしの手にした戦利品、私は多くのものを得てここに納める。」その他、征服を祝う祝宴などのことも刻まれている。しかし彼の行為は多くの場所で恐れられた。「わたしは捕虜を奪いその多くを火の中で燃やした。生かしておいた者のうちいくらかは手首を切り落とさせた。残りの者からは鼻、耳、指を切り落とさせた。兵士たちの多くから私は眼を取った。彼らの若者、娘、子供らを焼いて殺した。」別の都市の征服にあたっての祝宴について彼は碑文にこう書く。「反抗した貴人たちの皮膚をわたしは剥ぎ、彼らの皮膚を広げて積み上げた。」こうした恐怖を与える戦術や宣伝は、各地の征服にあたり有利に働いた。紀元前877年にはついに地中海まで進軍し、その後このように布告している。「わたしは武器を深海で清め、神々に羊を供えた。」[11]

紀元前800年までに、カルフの人口は7万5000人にまで増加し、当時の世界最大の都市となった[3]。アッシリアの王たちは引き続きアッシュルに埋葬されたが、王妃たちはカルフに埋葬されるようになった。カルフが今日ニムルドと呼ばれるのは、19世紀と20世紀の考古学者たちが、この地が創世記に登場する伝説の都市ニムロドであると信じてこの地名をつけたためである[9]。

シャルマネセル3世のカルフ

攻城兵器で都市を攻撃するアッシリア人、北西宮殿(865–860 BC)より出土

アッシュル・ナツィルパル王の跡は、その息子、シャルマネセル3世(紀元前859~824年)が継いだ。彼はニムルド(カルフ)に、父の宮殿をはるかに凌駕する宮殿を建設した。その宮殿は父の宮殿の2倍の広さで、約5ヘクタールの敷地に200以上の部屋を備えていた[12]。彼は大ジッグラトとして知られる建造物と、それに付随する神殿、そしてシャルマネセルの砦と呼ばれる要塞などを建設した。シャルマネセル3世は、35年間の治世のうち31年をアッシリア拡大のための戦争で過ごした。シリア・パレスチナの国家連合とオロンテス川河畔で戦った後、このように吹聴する碑文を残した。

わたしは戦士たちのうち14,000人を剣で斬り殺した。アダドのように、わたしは彼らの上に破壊の雨を降り注がせた。わたしは彼らの死骸をひろくばらまき、荒野を覆い尽くさせた。武器で、わたしは血の流れを谷間に流れさせた。彼らの死骸が倒れるには平野はあまりに狭すぎた。広い地方に彼らの死骸を埋めさせた。彼らの死骸を橋にしてわたしはアラントゥ(オロンテス川)を渡った[13]。

シャルマネセル3世はカルフに、父の宮殿より大きな宮殿を築かせている。大きさは2倍で、面積は12エーカー(49,000平方m)あり、部屋数は200を超えていた[12]。

しかし紀元前826年、息子アッシュル・ダイン・アプルが反乱を起こし、ニネヴェやアッシュルも含む27の都市が反乱に加わった。シャルマネセル3世はカルフをかろうじて維持したにとどまり、反乱はシャルマネセル3世の死後の紀元前820年まで続いた[12][14]

その後

ニムルドは、シャムシ・アダド5世からシャルマネセル5世までの治世中(紀元前824~722年)、100年以上に渡ってアッシリア帝国の首都であり続けた。特にティグラト・ピレセル3世(紀元前745~727年)は市内で大規模な建築工事を行うとともに、東アラム語を帝国の共通語として導入し、その地域語は今日でもこの地域のキリスト教徒アッシリア人の間で受け継がれている。

しかし、紀元前706年、サルゴン2世(紀元前722~705年)は帝国の首都をドゥル・シャルキンに移し、彼の死後、その子センナケリブ(紀元前705-681年)はさらにニネヴェに移したため、カルフはもはや都ではなくなったが、なお大都市であり、王の宮殿のある都市だった。紀元前612年、新アッシリア帝国の末期に、首都ニネヴェが新バビロニアやメディア王国により陥落したのと同じ時期に、カルフも破壊された。

後世の地理学書

紀元前5世紀、クセノポンは『アナバシス』の中で、同様の場所にあったアッシリアの都市「ラリッサ」の遺跡について記述している[15]。また、中世には、ヤクート・アル=ハマウィー、アブル=フィダ、イブン・サイード・アル=マグリービーなど、多くのアラビアの地理学者が、セラミヤ近郊の「アトゥル」(アッシリアを意味する)という名称で同様の場所を記述している[注釈 3]

考古学

初期の著作と名前をめぐる議論

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ラマッスを運び出すレイヤードの遠征隊を描いた、1851年のスケッチ
 
ラマッスを輸送するレイヤードの遠征隊を描いた、1849年のスケッチ
ニネヴェの考古学的出土品の多くは、大英博物館やルーブル美術館など、19世紀における主要な美術館に運ばれた。

ニムルド

西洋の文献でこの場所に関連してニムルドという名前が初めて使われたのは、1760年3月にモースルに滞在していたカーステン・ニーブールの旅行記である[4][注釈 1]。

1830年、旅行家のジェームズ・シルク・バッキンガムは「ニムロド・タッペとシャー・タッペと呼ばれる2つの丘陵地帯…ニムロド・タッペには、ニムロドによって宮殿が建てられたという言い伝えがある」と記している[16][17]。

しかし、この名称は19世紀半ばにアッシリア学者の間で大きな議論を巻き起こし、その多くは創世記10章で「彼はその地からアッシリアに行き、ニネヴェ、レホボト・イル、カラ、レセンを建設した。」と記されている、4つの都市の特定をめぐって論争が繰り広げられた[18]。

ラリッサ/レセン

この遺跡については、イギリス人旅行家クローディアス・ジェームズ・リッチが1820年に亡くなる直前に、彼によりさらに詳しく記述されている[1]。リッチはこの遺跡をクセノポンの都市ラリッサと同一視し、地元の人々は「一般的にここはニムロデ自身の都市であったと信じている。また、私がモースルで話を聞いた、物知りの1人か2人は、この地がアル・アトゥル、あるいはアッシュルであり、この国全体がそこから名付けられているのだと言っていた。」と述べている[注釈 4]。

1837年には、ウィリアム・フランシス・エインズワースがニムルドの遺跡を訪問した[1]。エインズワースはリッチと同様に、この遺跡をクセノポンの『アナバシス』に登場するラリッサ(Λάρισσα )と同一視し、また、ボシャールが語源に基づいてラリッサをレセンと同一視したことも踏まえて、ニムルドが聖書に登場するレセンであると結論付けた[注釈 2]。

レホボト

その後、1843年にジェームズ・フィリップス・フレッチャーがこの遺跡を訪れた。フレッチャーは、プトレマイオスとアミアヌス・マルケリヌスが記述した都市ビルタがヘブライ語でレホボスと同じ語源を持つという根拠に基づき、この遺跡をレホボスと同一視した[注釈 5]。

アッシュル

ヘンリー・ローリンソン卿は、アラビアの地理学者たちがこの地をアトゥル(Athur)と呼んでいたと述べている。イギリスの旅行家クローディアス・ジェームズ・リッチは、「私がモースルで話を聞いた、物知りの1人か2人は、この地がアル・アトゥル、あるいはアッシュルであり、この国全体がそこから名付けられているのだと言っていた。」と述べている[注釈 4]。

ニネヴェ

1850年以前、レイヤードは「ニムルド」遺跡が「ニネヴェ」というより広い地域の一部であると信じていた(どの発掘現場がニネヴェの都市を代表しているかという議論はまだ決着していなかった)。その地域には、今日、ニネヴェそのものとされる2つの遺丘も含まれており、彼の発掘出版物にもそのように記載されていた[注釈 6]

カラ

ヘンリー・ローリンソンは、楔形文字による「レベク」の読み方に基づいて、この都市を聖書に登場するカラと同一視した[19]。これは、エインズワースとリッチがクセノポンのラリサをこの遺跡と関連付けたことに倣ったものである[20][注釈 2]。

発掘

ニムルドにそのまま保存されている石碑
オースティン・ヘンリー・レヤードによるニムロド遺跡(「二ネヴェ市」)の想像図
シャルマネセル3世の黒色オベリスク(黒のオベリスク)、大英博物館蔵

ニムルドにおける最初の発掘調査は、オースティン・ヘンリー・レヤードによって1845年から1847年、そして1849年から1851年にかけて実施された[21]。彼の発掘により、巨大な宮殿跡や石像、アラバスターや石灰岩の石碑、象牙の彫刻などが発見された。彼は出土物から、この遺跡を旧約聖書で名前はよく知られていたニネヴェ市の市街地区だと考えた。カルフ(ニムルド)の初期の石碑では、この街のことを「ニネヴェ」とも呼んでおり、よく言われているようにレヤードがニムルドをニネヴェと誤って推定したと考えるのは正しくない。彼の書籍「ニネヴェとその遺跡」(Nineveh And Its Remains、1849年)および「ニネヴェの記念碑」(The Monuments of Nineveh、1849年-1853年)はニムルド遺跡について書いたものである。

レヤードの引退後、作業は1853年から1854年にかけてレヤードの助手であったモースル生まれのアッシリア人ホルムズド・ラッサムに、そして1854年から1855年にかけてイギリスの地質学者・考古学者ウィリアム・ロフタスに引き継がれた[22]。

1873年にジョージ・スミスがこの地で短期間の調査を行い、1877年から1879年にかけてラッサムが再びこの地を訪れた後、ニムルドはほぼ60年間手つかずのまま放置された[23]。

マックス・マローワン率いる英国イラク考古学協会のチームは、1949年にニムルド遺跡の発掘調査を再開した。この発掘調査の結果、244通のニムルド書簡が発見された。作業は1963年まで続けられ、1958年にはデイビッド・オーツが、1963年にはジュリアン・オーチャードが所長に就任した[24]。

ニムルドのシャルマネセルの砦から出土した、エサルハドンの円筒形碑文。ニムルド市で発見され、バグダッドのイラク博物館に収蔵されている。イラク、エルビル文明博物館。

その後の調査は、イラク共和国考古局(1956年、1959~1960年、1969~1978年、1982~1992年)[25]、ヤヌシュ・メウシンスキ率いるワルシャワ大学ポーランド地中海考古学センター(1974~1976年)[26]、主にシャルマネセルの砦の調査にあたったトリノ考古学研究発掘センターのパオロ・フィオリーナ(1987~1989年)、そしてジョン・カーティス(1989年)によって行われた[25]。ポーランド側プロジェクトの責任者であったヤヌシュ・メウシンスキは、1974年から1976年に夭折するまで、イラク発掘チームの許可を得て、遺跡全体をスライドフィルムと白黒プリントフィルムで記録した。現地に残されたレリーフだけでなく、遺跡内の各部屋に散らばっていた落下した破片もすべて写真に撮られた。メウシンスキーはまた、プロジェクトに参加していた建築家、リチャード・P・ソボレフスキーと協力し、遺跡の調査と平面図および立面図の記録を行った[27]。その結果、あらゆるところに散在していた破片の推定位置を考慮し、レリーフ全体の構成が再現された[26]。

発掘調査により、素晴らしい浅浮彫、象牙細工、彫刻が発見された。アッシュル・ナツィルパル2世の像は非常に良好な保存状態で発見され、宮殿の入り口を守っていた重量9.1~27トン[28]の巨大な有翼の人頭ライオン像も多数発見された。アッシュル・ナツィルパル2世に関する碑文が多数あるおかげで、この時代の他のどの統治者よりも、彼とその治世について詳細な情報を知ることができる。ニムルドでは、アッシュル・ナツィルパル2世、シャルマネセル3世、ティグラト・ピレセル3世の宮殿も発見されている。遺跡の一部は、ニヌルタとエンリルの神殿、書写と芸術の神ナブーに捧げられた建造物、そして広大な要塞であったことも判明している。

アッシュル・ナツィルパル2世の宮殿、シャルマネセル3世の宮殿、ティグラト・ピレセル3世(紀元前744年 - 紀元前727年)の宮殿も同定されている。シャルマネセル3世の「黒色オベリスク」は1846年にレヤードにより発見された。この有名な記念碑は高さが197.85cm近くあり、紀元前859年から紀元前824年にかけての成功に終わった遠征を記念したものである。頂上部分はジッグラトのような形状をしており、浮彫のうち一面には酒を地に注いで彼個人の神を祭るシャルマネセル3世の前で、イスラエル王イエフに率いられたイスラエル人の集団が平伏している様子が彫られている。楔形文字で、「オムリの息子イエフ」と書かれ、金、銀、鉛、矢などの貢物の詳細も書かれている。

ナブー神殿の遺跡。2008年

10組近い数の人頭有翼獣(ラマッス、顔は人で翼をもち獅子や雄牛の体をしている)を発見したヘンリー・レヤードは、その中から10ショートトンの重さの像2組を1847年にロンドンに持ち帰っている。特製の艀や特製の荷車を用意させ、運送に18カ月もの期間をかけた苦闘の後、彼はようやく大英博物館の館内への搬入に成功した。30ショートトンの重さがある像はポール・エミール・ボッタがコルサバードからパリへ1853年に搬送した。1928年にはエドワード・チエラ(Edward Chiera)が40ショートトンの巨像をシカゴへ搬送している。

また、1988年には、イラク考古局はこの遺跡で4つの女王の墓を発見している。

ニムルドから発見され現地に置かれている遺物は、イラクの過酷な気候に晒されて危機的な状況にある。現地には遺物を保護する建物がなく、石碑などは風雨により浸蝕を受けている[29]。

芸術品

イラク、ニムルドの施釉テラコッタタイルの細部。パラソルの下に立つアッシリア王は、衛兵と従者たちに囲まれている。紀元前875-850年。大英博物館所蔵

ニムルドは、アッシリア彫刻の主要な産地の一つであり、その彫刻には有名な宮殿の浮き彫りも含まれる。レイヤードは、宮殿の入口や戸口を守る巨大な守護像を6対以上発見した。これらはラマッス(男性の頭部と、ライオンまたは雄牛の胴体、そして翼を持つ像)である。頭部は円形に彫られているが、側面の胴体は浮き彫りとしてつくられている。重量は最大27トンである。1847年、レイヤードはライオンと雄牛をそれぞれ1体ずつ含む、重さ9トンの巨像2体をロンドンに持ち帰った。輸送は18か月に及び、幾度もの危機を乗り越え、彼はついにそれらを大英博物館に持ち帰ることに成功した。輸送の過程には、それらを車輪付きの荷車に積み込む作業も含まれていた。数十人の作業員が滑車とレバーの複雑なシステムを操作して、荷車に積み込まれた。当初の予定では、荷車を水牛の群れに繋いて、運ぼうと考えていた。だが、水牛は動こうとしなかった。台車は300人の男たちによって牽引された。その後、荷車は荷船に積み込まれたが、船を浮かせるために600枚のヤギ皮と羊皮が必要だった。ロンドンに到着すると、階段を上ってローラーで荷車を博物館まで運ぶために、傾斜路が作られた。

1853年には、ポール・エミール・ボッタによって27トンの巨像がコルサバードからパリへ運ばれた。1928年には、エドワード・キエラも36トンの巨像をコルサバードからシカゴへ運んでいる[28][30]。ニューヨークのメトロポリタン美術館には、さらに別の2体の巨像が所蔵されている[31]。

ニムルドの象牙製品 子牛に乳を飲ませる牛を描いた作品

アッシュル・ナツィルパル2世像、シャムシ・アダド5世の石碑、そしてアッシュル・ナツィルパル2世の石碑は、これらの君主の肖像が刻まれた大型彫刻であり、いずれもレイヤードと英国の考古学者ホルムズド・ラッサムによって大英博物館に収蔵された。また、大英博物館には、1846年にレイヤードによって発見された有名なシャルマネセル3世の黒色オベリスクも収蔵されている。このオベリスクは高さ1.98メートルで、紀元前859年から824年にかけてのシャルマネセル3世の戦役の勝利を、碑文と24枚のレリーフパネルで記念している。上部は寺院の塔のような形をしており、3段になっている。

アッシリア特有の浅浮き彫りの一連の作品は宮殿から持ち出され、現在ではいくつかの博物館(下記の「出土品」の項を参照)、特に大英博物館に所蔵されている。これらの作品には狩猟、戦争、儀式、行列の様子が描かれている[32]。ニムルドの象牙細工は、古代近東の各地からニムルドに運ばれてきた象牙彫刻の大規模な一群で、おそらく元々は家具などの装飾に使われていたものと思われる。これらは宮殿の倉庫などに保管されていたもので、今では主に大英博物館、イラク国立博物館に所蔵されているほか、他の博物館においても収蔵されている例がある。大英博物館の別の倉庫には「ニムルドの鉢」、すなわち約120枚の大型青銅製の鉢や皿が保管されていて、これも輸入品であった。

これらの発掘調査で発見された「ニムルドの財宝」は、金や宝石など613点からなるコレクションである。これらの財宝は、2003年のイラク侵攻後の混乱と略奪を免れ、12年間銀行の金庫に保管されていたが、2003年6月5日に「再発見」された[33]。

重要な碑文

シャルマネセル3世の黒いオベリスクの絵の中の1つに、mIa-u-a mar mHu-um-ri-iという名を含む碑文がある。ローリンソンは1850年にこれを「フビリの子ヤフア」と訳したが、1年後、エドワード・ヒンクス牧師はイスラエルの王イエフを指しているのではないかと示唆した(列王記下9:2以下)。他の解釈も存在するが、聖書考古学者の間では、このオベリスクはイスラエル人による最古の奉献物であると広く考えられている[注釈 7]。

ニムルドの粘土板(K.3751)やニムルドの石板など、聖書史において重要とされる他の多くの遺物もこの遺跡から発掘された。また、アッシリアの二言語表記のライオンの分銅は、アルファベットの歴史に関する学術的な推論において重要だった。

破壊

破壊される前のニムルドの遺跡。1分33秒、ユネスコによる動画[34]。

ニムルドの様々な遺跡は、イラクの厳しい気候による脅威にさらされてきた。適切な保護屋根がなかったため、遺跡の古代のレリーフは、風で運ばれた砂や季節の激しい雨による浸食を受けやすかったのである[29]。

2014年半ば、ISILはニムルド周辺地域を占領した。ISILは、モースルの預言者ヨナのモスクを含む他の聖地も破壊した。2015年初頭、ISILは偶像崇拝的、あるいは非イスラム的とみなした多くの古代遺物を破壊する意向を発表した。その後、モースルの図書館にある数千冊の書籍や写本を焼いた[35]。2015年2月、ISILはモースル博物館のアッカド語の記念碑を破壊し、2015年3月5日、イラクはISILの戦闘員がニムルドとその遺跡を冒涜的であるとしてブルドーザーで破壊したと発表した[36][37]。

ISILのメンバーは破壊の様子を撮影し、以下のように宣言した。「私の後ろにあるこれらの遺跡は、昔の人々がアッラーの代わりに崇拝していた偶像や彫像だ。かつて預言者ムハンマドはメッカに入城した際、素手で偶像を破壊した。我々は預言者から偶像を破壊し、滅ぼすよう命じられた。預言者の仲間たちはその後、諸国を征服した際に同様のことを行った。」[38] ISILは、復元されたニネヴェの城門を破壊する意向を表明した[36]。ISILは、後期パルティア時代の遺跡都市ハトラの破壊活動にも着手した[39][40]。2015年4月12日、ISIL戦闘員がハンマーやブルドーザーで叩き、最終的には爆発物を使ってニムルドの一部を爆破する様子を捉えたとされる、過激派の動画がインターネット上に公開された[41]。地上の遺構は完全に破壊されたとみられる。

ユネスコ事務局長のイリナ・ボコヴァ(Irina Bokova)氏は、ISILがニムルドにブルドーザーを投入して遺構を破壊し始めたことについて「文化遺産の意図的な破壊は戦争犯罪に当たる」と述べた[42]。レバノンのシリア同盟(Syriac League in Lebanon)の代表であるハビブ・アフラム氏は、遺跡の損失を「モンゴル帝国による中東の破壊を彷彿とさせる」「ISISは村や教会を破壊して我々の現在や未来を破壊するだけでなく、我々の文化や過去まで破壊しようとする」と述べている[43]。2016年11月の航空写真では、重機により組織的にジッグラトが破壊され地ならしされた様子が撮影された[44]。2016年11月13日、イラク軍は遺跡をISILから奪回した。統合作戦本部は、建物の上にイラク国旗を掲揚し、遺跡の縁にあるアッシリア人の村ヌマニヤも奪還したと発表した[45]。奪回した時点でのニムルドは、地中から発掘された遺構の90%が完全に破壊されていた。主要な建造物はすべて破壊され、ジッグラトは崩されて平らにならされ、アッシュル・ナツィルパル2世の宮殿は壊れた壁がいくつか点在するのみで、かつてその門を守っていたラマッスも粉砕されて破片が一帯にばらまかれていた。

遺跡の再建

ユネスコの支援を受けて、2017年7月に修復プログラムが始まった。第一段階では、遺跡の被害状況の調査、イラク人による維持管理・復旧チームの編成、アメリカのスミソニアン協会との協力による市の文化遺産の保存・保管が行われた。北宮殿の修復を目的とする第二段階は、2019年10月に開始された。

2020年現在、ニムルド救出プロジェクトの考古学者たちは、遺跡で2期にわたる調査を実施し、イラク人考古学者に遺跡保護と遺跡保存の支援に関する研修を行っている。再建と観光の計画が進行中だが、今後10年以内に実施される可能性はおそらく低い[46]。ペンシルベニア大学の発掘チームによって2022年10月中旬に開始された最初の大規模発掘作業では、碑文が刻まれた、扉の敷居板が12月に発見されたと報告されている[47]。

ISIL以後の治安維持

ISILから解放された後、この古代都市の治安は、アッシリア系治安部隊ニネヴェ平原防衛部隊によって管理されている[48]。

ギャラリー

関連項目

注釈

  1. ニーブールは355ページで次のように書いている。「モスルから約8時間離れたニムルドという廃墟の城には、さらに注目すべき建造物がある。ここでは、ティグリス川の両岸にダムが築かれ、近隣の土地の灌漑に必要な量の水を堰き止めている。」
  2. ウィリアム・フランシス・エインズワースは(ボシャールがレセンをクセノポンのラリサと同一視したことに基づいて)レセンをニムルドと同一視することを主張し、1855年の議論を次のように要約した。
    「学者ボシャールは、このアッシリアの都市は聖書でレセンと呼ばれている古代の都市と同じであり、ギリシャ人がその名前を尋ねたところ、冠詞が付けられてアル・レセンと答えられ、そこから簡単に転置してラリサが作られたという仮説を最初に提唱した。私はこの推定を極めて蓋然性が高いものとして採用した。チェズニー大佐(ii. 223)も同様の見解を示したが、これは確証のある事実ではなく、推定である。
     ……1846年、ローリンソン大佐はニムルドについて語る際、おそらく聖書に出てくるレホボスであると指摘したが、ある注釈の中で次のように付け加えている。「ニムルドが明らかに古いこと、そしてレセンとカラが他の遺跡に帰属していること以外に、ニムルドをレホボスと同一視する理由は見当たらない。」(『王立アジア協会紀要』第10巻26ページ) この時、ローリンソン大佐はカラをホルワン(Holwan)あるいはサー・プリ・ゾハブ(Sir Pul-i-Zohab)に、レセン、あるいはダセンをクルディスタンのシャリズル平原にあるヤシン・テッペに同定した。
     1849年に、ローリンソン大佐は次のように述べている(『王立アジア協会紀要』第11巻10ページ)。「アラビアの地理学者は、上ザブ川河口付近にある巨大な首都遺跡を常にアトゥルと呼ぶ。現在、この遺跡はニムルドという名で知られている。これらは創世記のカラを表している可能性が非常に高いと思われる。なぜなら、サマリア五書ではこの都市をラキサと名付けており、これは明らかにクセノポンのΛάρισσαと同じ称号であり、ペルシア語の r は非常に一般的に、メディア語とバビロニア語の両方で喉音に置き換えられているからである。
     1850年(王立アジア協会紀要第12巻)、ローリンソン大佐は「レベク」という題名の楔形文字碑文を発見したと発表した。彼はこれをハルクと読んでいる。著名な古文書学者は、「ニムルドは、アッシリア彫刻の最も素晴らしい標本を私たちに提供してくれた偉大な宝庫であるが、預言者ヨナの時代にニネヴェという通称で知られていた都市群の一つであった可能性が非常に高い。しかし、それ自体がその特定の都市の名称にふさわしいとは考えてない。建物を構成するレンガや石板に記されている名称を、私は疑わしいながらもレベクとして読んだが、これは創世記ではカラ、列王記や歴代誌ではハラとして現れる名称の元の形ではないかと考えている。実際、カラケネの首都として、そのすぐ近くのどこかの場所を占めていたに違いない」と述べている。
     最後に、1853年に、ローリンソン大佐は、キラ・シルガトで発見された前述の注目すべき円筒形碑文について記述している(王立アジア協会紀要第15巻6ページ以降)。この碑文は、その遺跡がアッシリア帝国の最古の首都であり、ニムルドやニネヴェ同様に、アッシュルとも呼ばれていたことを証明している。すでに見たように、彼はこのアッシュルを、モザイクのレセンを表すのに使われているタルグムのテル・アッシュルと同一視している。したがって、ニネベとカラの間にあるレセンの代わりに、ニネベとレセンの間にあったカラであるはずである。しかし、そのような非常に高い権威にもかかわらず、こうして到達した結論は完全に満足のいくものではないようだ。」
  3. レイヤード(1849、p.194)は脚注で次のように述べている。
    「ヤクートは、地理に関する著書『モエジェム・エル・ブルダン』の『アトゥル』の項目で、以下のように述べている。『モースルは、現在の名前が与えられる前は、カフをつけてアトゥル、あるいは時にはアクルと呼ばれていた。これは古代にはエル・ジェズィレ(メソポタミア)という名前であったと言われており、その州は都市にちなんで名付けられ、その都市の遺跡は現在モスルの東約8ファルサフの距離にある小さな町、セラミヤの門の近くに見ることができる。しかし、神が真実を知っておられる。』
    廃墟となった都市アトゥル、またはアクルについての同様の記述は、『セラミヤ』の項目にも見られる。アブルフェダ(訳注:アブ・アル=フィダ)は、『モスルの南で、小ザブ川(?)がアサールの廃墟都市の近くでティグリス川に流れ込む』と述べている。
    ルノー版『諸国の秩序』(第1巻289 ページ、注11)には、イブン・サイードからの次の抜粋が掲載されている。『廃墟となっているアトゥル市は、タウラート(旧約聖書)に記載されている。そこにはエルサレムを滅ぼしたアッシリアの王たちが住んでいた。』」。
  4. クローディアス・ジェームズ・リッチ(1836、p.129)は、彼の解釈を次のように述べている。
     「私は、クセノポンのラリサと思われるニムロドの遺跡を調べてみることに興味があった。それは河岸から十分に見えたので、主要な山のスケッチを描くことができた。プラットホームの西側から4分の1マイル(約400メートル)ほどのところに、デラウェイシュ(Deraweish)と呼ばれることもある大きな村、ニムロドがある。
     一般的にトルコ人は、ここはニムロド自身の都市であったと信じている。また、私がモースルで話を聞いた、物知りの1人か2人は、この地がアル・アトゥル、あるいはアッシュルであり、この国全体がそこから名付けられているのだと言っていた。デラウェイシュの村人たちが、今でもニムロドを自分たちの村の創始者だと考えているのは不思議なことである。村の語り部たちは、「キッセ・ニムロド」(ニムロド物語)と呼ばれる本を持っており、冬の夜に農民たちを楽しませている。
     [脚注:この、あまり知られていない地名の中には、この国に最初に定住した人の名が残っているようで、おそらくこの場所からその名前は広大な地域全体に広まったのであろう。創世記第10章第11節「その地からアッシュルが出てニネベを建てた。」あるいは、「彼はその地からアッシュル(すなわちアッシリア)へ出て行った」と訳されているものを参照。なお、前者の翻訳の方が好ましいと思われる。そして、この村の位置は、後にこれほど有名になるために非常に早くから名前が付けられたという仮説に有利である。]」
  5. ジェームズ・フィリップス・フレッチャー(1850、p.75-78)は、自身の論文で次のように述べている。
     「ニムロドの遺跡と、そこで最近発見された財宝は、非常に大きな関心を集めているため、話の途中でこの遺跡が創世記10章11節に記されている古代都市レホボトと同一であるかどうかについて、少し触れさせてもらいたい。
     ニムルドで発見された彫刻から、これらの塚が古代に何らかの大きなアッシリア都市によって占められていたことは明らかである。1850年1月26日付のアテネウム誌に引用されたアッシリア古代遺跡に関する興味深い論文の中で、ローリンソン少佐はニムルドの遺跡はカラ、あるいはハラハの古代都市を表していると推測し、ニネヴェをネビ・ユナスと位置づけている。しかし、古代のカラ(またはハラ)は、おそらくカラケネ地方の首都であったと考えられ、クルド山脈により近い位置にあった可能性が高い。
     プトレマイオスは、カラケネ地方は北はアルメニア山脈、南はアディアベネ地方に接していると述べている[プトレマイオス『歴史』第6巻第1章]。多くの著述家は、ニヌス、すなわちニネヴェを後者の州に位置づけている。しかし、そうだとすれば、アディアベネにはニムルドも含まれることになり、したがって、ハラ、あるいはカラがローリンソン少佐が示した場所にあったとは考えにくい。
    自身も博識なシリア人で、東方の歴史と地理に精通していた聖エフライムは、カラを現代のハタレ、すなわちニネヴェの北北西に位置する、主にヤズィーディー教徒が居住する大都市であると考えている。[ストラボンは『歴史書』第1巻G章でニネヴェ近郊の平野について言及しており、その平野をアディアベネ州には属さないと考えているようである。しかし、彼の証言をそのまま受け入れるとすれば、ニネヴェ市とその南方の地域はカラケネ地方からも除外されることになる。なぜなら、彼はその直後にカラケネをアッシリアの独立した地域として列挙しているからである。『アッセマニ』第3巻に記された司教区の配置を見ると、アトゥールとアディアベネは常に結びついているように見える一方、カラケネは山地に近いとされている。] 
     ハタレとニネヴェの遺跡の間には、ラス・エル・アインという名の村があり、これは明らかに創世記のレセンが訛った形である。この説は、創世記10章12節でレセンがカラフとニネヴェの中間地点に位置していたとされている記述を裏付けるものであることは注目に値する。しかし、ローリンソン少佐の仮説が正しいと仮定すると、ネビ・ユナスとニムルドの間には、せいぜい40キロメートル(25マイル)しか離れていないため、大きな都市が存在する余地はないことは明らかである。
     また、ニムルドがクセノフォンのラリッサの遺跡であると考えることも確実ではない。一万人の軍勢がザブ川を渡ってからティグリス川に到着するまでには、かなりの時間が経過していたに違いない。ザブ川を渡った直後、彼らが幅の広いと思われる山間の小川を渡ったことが明記されている。しかし、ニムルドとティグリス川の間には、そのような小川の痕跡は一切見られない。
     したがって、クセノフォンの「ハラドラ」は、おそらくハジル川、あるいはブマダス川であり、一万人の軍勢はそこを通過後、現代のケルマリス村を通り過ぎて北西方向へ進み、ティグリス川に至ったと考えられる。後者からほど近い場所に、彼らは廃墟となった都市を発見した。クセノフォンはこの都市をラリッサと呼んでおり、おそらく現在のラス・エル・アインの場所に位置していたと考えられる。この名で知られる村はティグリス川から約19キロメートル(12マイル)離れているが、古代都市はもっと近くにあった可能性がある(クセノフォン『アナバシス』第3巻第4章)。
     プトレマイオスとアンミアヌス・マルケリヌスはともに、ザブ川の河口に位置する都市について言及しており、それはニムルドの塚があった場所と全く同じ場所にあり、彼らはそれをビルタ、あるいはヴィルタと呼んでいる。しかし、カルデア語のビルタ、あるいはブリタは、ヘブライ語のレホボトと同じ意味、すなわち広い広場や通りを意味しており、名前の一致は場所の一致も示唆しているように思われる。したがって、ニムルドはレホボトと同一である可能性が高い。レホボトは、アッシュルがシナルの地を去った後に建設したと言われている場所である。」
  6. オースティン・ヘンリー・レヤード『ニネヴェとその遺跡』より。
    「ニムルドの遺跡がニネヴェの区域内にあったことは、それ自体がニネヴェの所在地を示すものではないとしても、ストラボンやプトレマイオスが都市はリュコス川沿いにあったと述べていることから証明されているように思われ、初期のアラブ地理学者によって伝えられた伝承によっても裏付けられている。ヤクートをはじめとする文献には、セラミヤ近郊のアトゥル遺跡について言及されており、この遺跡がアッシリアという地名の由来となったとされている。また、イブン・サイードは、これらの遺跡がエルサレムを破壊したアッシリア王の都のものであると明言している。
    既に述べたように、これらの遺跡は現在でもアトゥル、あるいはニムルドと呼ばれている。アッシリアの既知の遺跡すべてを調査した結果、ニムルドはニネヴェと同一であることがさらに明らかになった。現存する遺跡から判断すると、この都市はもともとこれらの塚がある場所に建設されたと考えられる。ティグリス川とザブ川という二つの大河の合流地点に非常に近い場所に位置しており、これ以上ないほど理想的な立地だった。」。
  7. イスラエルの王は皆、アッシリア人によって「オムリの子ら」と呼ばれていた(「mar」は「息子」の意味)

出典

参考文献

参考ウェブサイト

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