ニューヨーク・アメリカンズ
かつて存在したナショナルホッケーリーグのチーム
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ニューヨーク・アメリカンズ (英語: New York Americans) は、かつて存在したNHLチームとしてアメリカ合衆国のニューヨークを初めて本拠地としたプロアイスホッケーチームである。愛称はアマークス (Amerks)。
| ニューヨーク・アメリカンズ New York Americans | |
| カンファレンス | |
| ディビジョン | カナディアン・ディビジョン |
| 創設年 | 1925年 |
| 歴代チーム名 | ニューヨーク・アメリカンズ(1925 – 1941) ブルックリン・アメリカンズ (1941 – 1942) |
| ホームアリーナ | マジソン・スクエア・ガーデンⅢ |
| ホームタウン | ニューヨーク州ニューヨーク |
| チームカラー | 赤、白、青 |
| メディア | |
| オーナー | |
| GM | |
| ヘッドコーチ | |
| キャプテン | |
| 獲得タイトル(獲得年) | |
| スタンレーカップ優勝 (0回) | |
| アブコワールド (0回) | |
| カンファレンス優勝 (0回) | |
| ディビジョン優勝 (0回) | |
| プレジデンツトロフィー | |

歴史
アメリカンズは1925-26シーズンに新設されたマディソン・スクエア・ガーデンの完成と同時に、2つの拡張チームのうちの1つとしてピッツバーグ・パイレーツとともに創設された。ロースターの多くは前シーズンにハミルトン・タイガースでプレーしていた選手で構成されていたが、所属選手による史上初のストライキによって活動を停止したタイガースはリーグによって解散させられたため、アメリカンズはタイガースの後継とはみなされていない。[1]
アメリカンズはマディソン・スクエア・ガーデンのオーナー、テックス・リカードと契約し、1925年12月15日、17,000人の観客の前でアメリカンズはガーデンの正式な開場試合でモントリオール・カナディアンズに1-3で敗れた。[2]
初年度に勝ち越し記録はなかったものの、常に多くの観客を集めていたアメリカンズの興行成績の成功は、次年度のライバルとなるニューヨーク・レンジャース(テックス・レンジャース)の創設につながることになった。[3]
1926-27シーズン前にリーグが10チームに拡大した後に採用した新しい2ディビジョン制により、アメリカンズはカナディアン・ディビジョンでプレーする唯一のアメリカチームとなり、その後の数シーズンは苦戦したが、1928-29シーズン、パイレーツから加入したロイ・ウォーターズのMVP級の活躍により、19勝13敗2分成績でシーズンを終えた。平均失点1.15のウォーターズはハート記念賞を受賞した最初のゴーリーとなった。
1931-32シーズン、氷上での才能が劣るアメリカンズはボストン・ブルーインズ戦で61回パックを放ち、3-2で勝利した。次に両チームが対戦した際、ブルーインズはパックを87回放り込み、両チームは0-0の引き分けに終わる。この出来事は、最終的に1937年のアイシングルールの導入につながったとされる。
1935-36シーズンに2度目のプレーオフ進出を果たす。前年にカルダー記念賞を受賞したスウィーニー・シュライナーは、シーズン48試合でリーグ最多の45ポイントを記録し、リーグの得点記録を保持していたべテランのネルス・スチュワートが加入したアメリカンズは、第1ラウンドでシカゴ・ブラックホークスを破り、初のプレーオフシリーズを制したが、準決勝でトロント・メープルリーフスに敗れた。
1937-38シーズンにチームのオーナーが禁酒法時代に財を成したビル・ドワイヤーから前年度コーチのレッド・ダットンに代わると、チームはディビジョン2位で終え、プレーオフ1回戦でレンジャーズに勝利するも、準決勝シリーズの第1戦で最終的な優勝チームであるシカゴ・ブラックホークスに惜しくも敗れた。
他のNHLチームと同様に、アメリカンズも第二次世界大戦で戦うために離脱した選手たちの影響を受け、クラブが再び財政難に陥ったため主力選手を売却せざるを得ず、アメリカンズは1940-41シーズンに48試合で8勝とNHL最下位に終わる。翌シーズン、チームはファンの支持を広げようとブルックリン・アメリカンズ (Brooklyn Americans) に改名されたが、マンハッタンに残るファンには受け入れられず、チームはシーズンを連続して最下位で終えた。
1941-42シーズン終了後、アメリカンズは10年分の未払い債務と戦時中の選手不足のため、活動の停止を決定したが、戦争終結後、リーグはアメリカンズの復帰を認めなかった。これにはレンジャーズがアメリカンズの復帰を認めたくなかったという考えがあり、ダットンは「レンジャーズは私の生きている間はもうカップを取れないだろう」と言ったとされる。これはレンジャーズの「1940年の呪い」の一部となり、スタンレーカップ優勝は54年間 (1940年〜1994年) 達成できなかった。
チームの氷上での成功は多くはなかったが、NHLを初めてニューヨークに持ち込み、解散後はリーグのオリジナル・シックスの道の1つを開き、ゲーム初期のスーパースターの数名を輩出した。再びニューヨーク都市圏に現れたチームは31年後、1972-73シーズンのニューヨーク・アイランダースである。
シーズンごとの成績

注: T = 引き分け, PTS = ポイント
ニューヨーク・アメリカンズ
| 年 | GP | W | L | T | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレーオフ(相手チーム) |
| 1925-26 | 36 | 12 | 20 | 4 | 68 | 89 | 28 | リーグ5位 | 不参加 |
| 1926-27 | 44 | 17 | 25 | 2 | 82 | 91 | 36 | カナディアン4位 | 不参加 |
| 1927-28 | 44 | 11 | 27 | 6 | 63 | 128 | 28 | カナディアン5位 | 不参加 |
| 1928-29 | 44 | 19 | 13 | 12 | 53 | 53 | 50 | カナディアン2位 | 予選敗退 (NYR) |
| 1929-30 | 44 | 14 | 25 | 5 | 113 | 161 | 33 | カナディアン5位 | 不参加 |
| 1930-31 | 44 | 18 | 16 | 10 | 76 | 74 | 46 | カナディアン4位 | 不参加 |
| 1931-32 | 48 | 16 | 24 | 8 | 95 | 142 | 33 | カナディアン4位 | 不参加 |
| 1932-33 | 48 | 15 | 22 | 11 | 91 | 118 | 41 | カナディアン4位 | 不参加 |
| 1933-34 | 48 | 15 | 23 | 10 | 104 | 132 | 40 | カナディアン4位 | 不参加 |
| 1934-35 | 48 | 12 | 27 | 9 | 100 | 142 | 33 | カナディアン4位 | 不参加 |
| 1935-36 | 48 | 16 | 25 | 7 | 109 | 122 | 39 | カナディアン3位 | 準決勝敗退 (TOR) |
| 1936-37 | 48 | 15 | 29 | 4 | 122 | 161 | 34 | カナディアン4位 | 不参加 |
| 1937-38 | 48 | 19 | 18 | 11 | 110 | 111 | 49 | カナディアン2位 | 準決勝敗退 (CHI) |
| 1938-39 | 48 | 17 | 21 | 10 | 119 | 157 | 44 | リーグ4位 | 準々決勝敗退 (TOR) |
| 1939-40 | 48 | 15 | 29 | 4 | 106 | 140 | 34 | リーグ6位 | 準々決勝敗退 (DET) |
| 1940-41 | 48 | 8 | 29 | 11 | 99 | 186 | 27 | リーグ7位 | 不参加 |
ブルックリン・アメリカンズ
| 年 | GP | W | L | T | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレーオフ(相手チーム) |
| 1941-42 | 48 | 16 | 29 | 3 | 133 | 175 | 35 | リーグ7位 | 不参加 |
