ネメシス (蒸気フリゲート)
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| ネメシス | |
|---|---|
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| 基本情報 | |
| 建造所 | バーケンヘッド製鉄所[1] |
| 運用者 |
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| 艦種 | 蒸気フリゲート[2] |
| 艦歴 | |
| 進水 | 1839年 |
| 就役 | 1840年3月[3] |
| 最期 | 1852年に売却[2] |
| 要目 | |
| トン数 | 660 トン(bm) |
| 長さ | 56 m |
| 幅 | 8.8 m |
| 吃水 | 1.8 m |
| 主機 | ジョージ・フォレスター・アンド・カンパニー製蒸気機関2基[4] |
| 出力 | 120hp |
| 兵装 |
32ポンド砲2基 6ポンド砲4基 コングリーヴ・ロケット発射器1基 |
ネメシス(英語: Nemesis)は、イギリス東インド会社が所有していた蒸気フリゲート。イギリス初の外航鉄船である。東インド会社の秘密委員会によって発注されたネメシスは、姉妹艦であるフレゲトーン、プルート、プロサーパイン、アリアドネ、メドゥーサとともに、バーケンヘッドのジョン・レアード・ヤードやミルウォールのウィリアム・フェアバーン・アンド・サンズで建造された[5]。ネメシスは、これら姉妹艦の中でも最大の規模を誇った。
1839年に進水し、翌年には清へ配備された。アヘン戦争が勃発すると、ウィリアム・ハッチオン・ホールやリチャード・コリンソンを艦長に据えて、清のジャンク船を圧倒する活躍を見せたため[6]、清からは「悪魔の船」と称された[2]。
ネメシスは東インド会社の秘密委員会が就役させた艦船だが、東インド会社の艦船リストにはその名が記載されていなかった[7]。当時のタイムズ紙は、以下のようなコメントを出している。
...この船は海軍本部の許可証か私掠免許状を所持している。仮にそうであれば、この書状は支那人に対してのみ有効であり、アヘンの密輸という目的には、この船は驚くほど適している。[8]
ネメシスは、イギリスの造船会社であるジョン・レアード・バーケンヘッド製鉄所で、約3か月を費やして建造された砲艦である[9]。全長184フィート (56 m)、船幅29フィート (8.8 m)、石炭満載時の喫水は6フィート (1.8 m)、通常時の喫水は5フィート (1.5 m)以下、積載能力は660トンを有していた[3][2]。主機は、ジョージ・フォレスター・アンド・カンパニー製の蒸気機関であり、出力60馬力の機関を2基備えていた[10]。その他、兵装として32ポンド砲2基、6ポンド砲4基、コングリーヴ・ロケット発射器1基が配備されていた。機帆船であるネメシスは、喫水が約5フィート (1.5 m)と浅かったため、河川を遡って他の船や目標を追跡し、交戦することが可能であり、特に清で大きな効果を上げることができた。
ネメシスの防水隔壁は軍艦に初めて使用されたものであったため、海上公試中と1840年に清へ向かう航海中の2回、船体に損傷を受けても持ちこたえることができた[11][注釈 1]。1840年7月[12]、前年に王室天文官のジョージ・ビドル・エアリーが確立した、鉄製の船体が方位磁針に与える影響を補正する技術の助けを受け、ネメシスは鉄船として初めて喜望峰を経由することに成功した。しかし、その補正技術はさほど効果的ではなかったため、ネメシスの方位磁針は最後まで性能が悪かった[13]。
アヘン戦争

1840年の終わりごろにネメシスは清に到着したが[4]、リヴァプールを出港する時点で航海の目的は秘匿されていたため、行先もロシア帝国のオデッサと公表されていた[7]。アヘン戦争が勃発した際に、とあるイギリス軍人が書き残した記録では、「鉄製の蒸気船の利点、または欠点について試すために極めて好都合な機会と考えられていた」と、ネメシスとアヘン戦争の関わりについて述べられている[14]。1841年1月7日、第二次穿鼻の戦いで虎門の清国艦隊と一戦を交えたが、これがネメシスにとって初の実戦投入であった。2月27日には、ファースト・バーの戦いで清の軍艦ケンブリッジを撃沈したが、この船はインディアマンの「ポーチャー」を清が購入し、旧式ながらも再武装したものだった。前述の通り浅い喫水であったため、3月13日から15日にかけて行われたブロードウェイ遠征では浅瀬の航行が可能であり、3月18日の第一次広州の戦いに貢献した。その後、舟山を拠点としたネメシスは、1842年2月の泰山における作戦行動に従事し、寧波に対する清国軍の大規模な攻撃を退けた後の小規模な戦闘にも参戦した[6]。
戦後
アヘン戦争終結後は、インドネシアやフィリピンに派遣されて海賊鎮圧任務に従事した。1846年末、同年7月から広州で発生している暴動に対応するため、ジョン・フランシス・デイヴィスによって現地の東インド会社商館を保護する任務を命じられた[15]。その後、商人たちの抗議があったにも関わらず、1847年2月までに広州から撤退している[16]。5月には、ボルネオ島のブルネイ川でスールー海を拠点とする海賊の船団を攻撃した[17]。1853年初頭、ネメシスはビルマにおいて、東インド会社の蒸気船であるゼノビアがバセイン州からビルマ軍を追い払うための支援を行った[18]。1854年2月1日、アジアでの一連の任務を終えたネメシスは、上海からベルファストへ向けて出港した[19]。
1893年に開催されたシカゴ万国博覧会では、ネメシスを建造したレアード・ブラザーズ社が同船の模型を出展している[20]。