1925年、アムンセンはノビレに電報を送ってオスロに招き、飛行船による北極横断飛行を提案した。ノビレは、その時点で存在するN-1飛行船はその目的には重すぎると判断し、工事中だったN級飛行船を使うことを提案した。しかしアムンセンは1926年までに準備が完了することをゆずらなかったため、ノビレは寒冷な気候で長距離飛行を行うためにN-1の改造をしなければならなかった。ノルウェー人はノビレが準備したN-1を購入する契約を結び、飛行船の名を「ノルゲ」と改めた。
北極横断飛行は1926年3月29日、ローマからスタートした。途中イングランドのパルハム(Pulham)で2日間停泊したあと、4月14日にノルウェーのオスロに飛んだ[1] 。その後レニングラード(現サンクトペテルブルク)経由でノルウェー北部のヴァドソーに到着した。そこには今でも飛行船係留塔が立っている。探検行はそこからさらにバレンツ海を横断してスヴァールバル諸島のニーオーレスンにあるキングズベイまで進んだ[1] 。ノビレはそこでフォッカー機による北極飛行の準備をしているリチャード・バードに会った[1] 。ノビレは、ノルゲ号が北極とアラスカの間の、海図のない、知られざる陸地が有ると考えられている地域を飛ぶのだと説明した。その時点で彼はロバート・ピアリーがすでに北極に到達したと信じていた[1] 。それが北極横断前の最後の休止であった。飛行船は5月11日の午前9時55分にニーオーレスンを飛び立ち、北極の氷を横断する最後の航程に向かった。
ヴァドソーの係留塔
ニーオーレスンの係留塔
探検隊16名のうちアムンセン以外の15名は以下のとおりである。他にノビレの愛犬ティティーナも乗船していた[1] 。
- ウンベルト・ノビレ - 飛行船の設計者兼パイロット
- リンカーン・エルズワース - 極地探検のスポンサー
- オスカー・ウィスティング - 極地探検家、舵手
- ヒャルマー・リーセル=ラルセン(Hjalmar Riiser-Larsen)中尉 - 航法士
- Emil Horgen中尉 - 昇降舵操作員
- Birger Gottwaldt大尉 - 無線エキスパート
- フィン・マルムグレン博士 - ウプサラ大学の気象学者[1]
- フレドリック・ラム - ジャーナリスト
- Frithjof Storm-Johnsen - 無線技師
- Oscar Omdal空軍中尉 - 航空機関士
- イタリア人乗組員
- Cecioni、Rigger Alesandrini - チーフ・メカニック
- Arduino、Caratti、Pomella - エンジンメカニック
彼らは5月12日午前1時25分(GMT)に北極点に達した。ノルウェーとアメリカとイタリアの旗がその地点の氷上に飛行船から投下された[2]。アムンセンは後日、飛行船はノビレの下で空のサーカス馬車のようになったと苦々しく回想している。
5月14日、飛行船はアラスカ州テラーのエスキモーの村に到達した。天候が悪化しており、目的地であるアラスカ州ノームに飛行を続けることを諦め、当地に着陸を余儀なくされたのである[1]。
ノルゲ号の前に3回の北極点到達の主張がなされている - 1908年のフレデリック・クック、1909年のロバート・ピアリー、それに1926年(ノルゲ号のほんの数日前)のリチャード・E・.バードである。これらについてはいずれもその精確さへの疑問や、明白な詐欺ではないかといった議論がある。こうしたノルゲ号以前の北極点到達についての論者の中には、ノルゲ号の乗組員こそが北極点に確実に到達した探検家であると考える者もいる。
ノルゲ号がテラーに着陸して小さな無線機を見つけるまでの3日間、ノルゲ号の無線は彼らの状況を送信することができなかった。北極を横切った後、飛行船を覆った氷の被膜は成長を続け、プロペラで吹き飛ばされたその破片は船体の外皮に穴を開けていた。ノビレは、修理できないほど多くの穴が開いたと報告している[1]。
ノルゲ号は後にノルウェー航空クラブ[3]に売却され、名前も変更された[4][5]。