ハイ・バ・チュンの反乱
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背景
経緯
洛陽にあった漢の政府は、事態の展開にゆっくりとしか対処しなかった[1]。 42年の5月ないし6月に至り、光武帝は軍事行動を起こすよう命令を発した[1]。馬援将軍が反乱の鎮圧にあたる司令官となった[1]。馬援には、「伏波将軍」(「波を鎮める将軍」の意)という称号が与えられた[1]。
馬援とその麾下の武将たちは、中国南部で兵士を動員した[1]。軍勢は1万人ほどの規模となった[2]。馬援は、広東から補給のための艦隊を海岸に沿って派遣した[1]。
軍勢は陸路で難所を越えて紅河デルタに向かい、43年のはじめに到着した[1]。反乱側は、4月ないし5月には完全に鎮圧された[1]。徴姉妹は捕えられ、斬首された[1][2]。43年末には、反乱の残党の掃討も終わり、漢軍はこの地域を完全に掌握した[1]。
その後
評価
反乱が敗北した理由のひとつには、女性の指導者の下では勝てるわけがないと当の反乱者たち自身が思い込んでいたことがあった[5]。女性が指揮する立場にあったことは歴史的なベトナム語文献の中で、反乱の敗北の理由としてしばしば槍玉に挙げられることになった[6]。ベトナム人の歴史家たちは、嫌悪の対象ですらある「ただの小娘たち」が反乱の旗を翻したときに、男たちが何もしなかったことを訝り、嘲笑してきたが、徴姉妹の反乱に言及したベトナム語の詩が、男たちが何もしなかったことについて語っているのも、しばしば誤って解釈されるように、女性を賛美したり、戦いを女性の仕事だと考えて綴られたわけではない[7][8]。
「敵が門前に迫れば、女が外へ出て戦う」と訳される詩句は、女性のたしなみを表した語句としてしばしば引かれる[9]。ベトナム語で「Giặc đến nhà, đàn bà cũng đánh(ハンノム:賊𦤾茹, 彈婆拱打)」というこの語句が実際に意味しているところは、戦争で戦うのは女性にはふさわしくないのであって、事態が絶望的に悪化して家庭に及ぶまでになった時しか女性は戦いに加わるべきではない、ということである[10][11]。