ハウィー・モレンツ
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ハウィー・モレンツ | |
|---|---|
|
1936–1937 | |
| 本名 | ハワード・ウィリアム・モレンツ |
| 原語名 | Howard William Morenz |
| 愛称 |
ミッチェル・メテオ ストラトフォード・ストリーク |
| 生誕 |
1902年9月21日 オンタリオ州ミッチェル |
| 死没 |
1937年3月8日(34歳没) ケベック州モントリオール |
| 身長 | 5 ft 9 in (1.75 m) |
| 体重 | 165 lb (75 kg; 11 st 11 lb) |
| ポジション | センター |
| シュート | 左打ち |
| 所属したチーム |
モントリオール・カナディアンズ シカゴ・ブラックホークス ニューヨーク・レンジャース |
| プロ選手期間 | 1923年 – 1937年 |
| 1945年殿堂入り | |
ハウィー・モレンツ(英語: Howie Morenz, 1902年9月21日 - 1937年3月8日)は、カナダオンタリオ州ミッチェル生まれのプロアイスホッケー選手。ポジションはセンター。
しばしばアイスホッケー界初の本格的なスーパースター、巧みに相手をすり抜け、高速で氷上を駆け抜けるスピードスターとして、二つの世界大戦間期のNHLで最もダイナミックな選手と評価されている。
アマチュア
13歳で地元ミッチェルの未成年者チームで初めて組織的な試合に出場した際にはゴールテンダーを務め、その試合で21失点を許したため、コーチはモレンツをローバー(チーム7人目のスケーター)に移したところ、彼がチームで最も速く、最も賢いスケーターであることを発見した。モレンツは故郷と自然なスピードにちなんで「ミッチェル・メテオ(流れ星)」というニックネームを得て、チームの西オンタリオ・ジュニア選手権優勝に貢献した。
家族が約15マイル離れたより大きな町ストラトフォードに引っ越した後、モレンツはジュニアチームから始め、やがて別名「ストラトフォード・ストリーク(稲妻)」を得た。 ストラトフォードのミジェットおよびインターミディエイトチーム、さらにはグランド・トランク鉄道の見習いクラブにも出場し、彼は3チームすべてをそれぞれ優勝に導き、メモリアル・カップ決勝でウィニペグ・ジュニア・ファルコンズと対戦したミジェットチームのユニフォームを着た。シニアチームで9ゴールを決めたとき、若きモレンツの噂は速く広まり、トロント・セントパトリックス(1927年にメープルリーフスと改名)が最初に接触し、二転三転の末にモントリオール・カナディアンズのユニフォームを着ることになった。
プロ
モレンツはルーキーの第1ラインセンターとして、ウィングのオーレル・ジョリアやビリー・ブーシェと組み、24試合で13ゴールを挙げてカナディアンズのスタンレーカップ優勝に貢献し、1924-25シーズンには28ゴールに倍増した。1927-28シーズン、33ゴール18アシスト51ポイントでリーグトップとなり、最初のハート記念賞を獲得、オーレル・ジョリア(28ゴール)、アート・ガーニュ(20ゴール)と組み、リーグ史上最も爆発的な攻撃陣を形成した。
モレンツは1920年代後半から1930年代初頭にかけてリーグで支配的な攻撃力の一人であり、1929-30には44試合で40ゴールを記録し、翌シーズンには2度目のハート記念賞とゴール王を獲得し、再び51ポイントのシーズンを達成した。モレンツは1931年にNHL初のファーストオールスターチームに選出され、翌年は48試合で49ポイントを記録し、5シーズンで3度目のハート記念賞を受賞、さらにファーストオールスターチームにも選ばれた。

1930年と1931年のカナディアンズのスタンレーカップ連勝にも驚異的なスピードとパックハンドリングで貢献した。ボストン・ブルーインズはレギュラーシーズンを驚異的な38勝5敗1分の成績で終え、カップ優勝の有力候補とされていたが、1930年の決勝でカナディアンズは3戦2勝制のシリーズを連勝し、番狂わせを勝ち取った。1931年、カナディアンズはシカゴ・ブラックホークスを5試合に及ぶ激戦の末に勝利し、優勝決定戦の2-0でカナディアンズが勝利した試合では、モレンツは肩を負傷しながらも決勝ゴールを決めた。
30歳になると14ゴールに減り、カナディアンズは勝率5割を下回るようになり、1933-34シーズンには8ゴールに終わった。カナディアンズは1934年10月3日にモレンツをシカゴ・ブラックホークスへ放出し、シカゴは1935-36シーズン途中に彼をニューヨーク・レンジャースにトレードした。レンジャースでキャリアを終えると思われたが、リーグ最下位に落ちたカナディアンズの新たなオーナーが引き継ぎ、1936年9月1日レンジャーズと契約を結び、その後モレンツをキャリアの始まり場所に戻す予定だった。
34歳のモレンツは選手としてのピークを過ぎていたが、モントリオールへの復帰に活力を与えられ、カナディアンズは17勝9敗3分の好成績を収めた。 カナディアンズは1937年1月28日にモントリオール・フォーラムに戻り、ブラックホークスと対戦した。試合序盤、モレンツはシカゴのゾーンに勢いよく滑り込み、ブラックホークスのアール・シーバートが追いかけた。モレンツのスケート靴のブレードがボードに引っかかり、シーバートはモレンツに激突し、モレンツの脚は4か所粉砕した。モレンツは運ばれてモントリオールのサン・リュック病院へと急送され、医師たちはピンで脚を安定させ、足を牽引装置に置いた。脚は徐々に回復し始めたが、モレンツは自分のキャリアが終わったことを悟り、彼は6週間も病院にいたまま、1937年3月8日に冠動脈塞栓で亡くなった。
2日後、モレンツの葬儀はモントリオール・フォーラムで行われ、約5万人のファンが中央の氷上に置かれた彼の棺の前を通り過ぎた。式典が終わると、モレンツは8人のチームメイトに運ばれて霊柩車に乗せられ、約25万人のファンが並ぶ市街地を進んだ。
1945年にホッケーの殿堂が開館した際、モレンツは最初の殿堂入りした9人の中の1人だった。 1950年、カナディアン・プレスはモレンツを20世紀前半の最高のアイスホッケー選手に選び、2017年にはNHLが100人の最も偉大なNHL選手のリストに彼を含めた。
影響
その後NHLオールスターズはカナディアンズとマルーンズの合同チームとエキシビションゲームを行い、収益はモレンツの遺族に寄付された。これは最初の公式NHLオールスターゲームよりも前に始まったが、他のチャリティマッチと同様に、毎年恒例のイベントへとつながった[1]。
アイスホッケー界のベーブ・ルースとも称されたモレンツは、そのエキサイティングなプレーを通して、プロホッケーをアメリカに広める一翼を担ったとされる[2]。