ハリー・ベニンホフ
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人物・経歴
1874年4月8日、米国ペンシルベニア州タイタスビルで生まれる[5]。同州ヴィーナンゴ市生まれとの資料をある[1]。父はルイス・ネルソン、母はメアリー・マクリントック・ベニンホフで、5男1女の長男であったという[1]。
1892年にインディアナ州の北西部のポーター郡ヴァルパイレゾに移住。1896年に22歳の時、フランクリン・カレッジ・オブ・インディアナに入学。この大学はインディアナ州のバプテスト教会が高度な教育を行うために1834年に設立したリベラルアーツ・カレッジであった。1901年、同州ハワード郡ココモ出身のトロッティー・メレルと結婚するが、彼女も同大学の卒業生であった[1]。
同1901年に、夫妻は米国北部バブテストの教育宣教師として、ビルマ(現・ミャンマー)のヤンゴンにあるヤンゴン・バプテスト大学に派遣され、ベニンホフは化学と代数を教える[1]。
1902年にマンダレー・バプテスト高等学校の校長に就任。だが、夫人がミャンマーの風土に合わなかったこともあり、1904年に帰国[1]。
1904年から1907年までヴァルパレイゾ市第一バプテスト教会の牧師を務める[1]。
その間、シカゴ大学に学び、1907年(明治40年)にMAの学位を取得し[1]、卒業と同時に日本に派遣される[3]。ベニンホフ夫妻は先ず東京・築地居留地30番地に住んだ。築地居留地では、他のミッションのほか、関東学院の前身の一つである東京学院もアメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオンにより1895年に創設されていた[1]。
1907年(明治40年)、ベニンホフは東京学院(現・関東学院)の学院長に就任[1]。
ベニンホフは、1908年(明治41年)に東京学院での任務の傍ら[1]、早稲田大学の学生に請われて英語による聖書研究会『3Lクラブ』[6]を東京・築地にあった自宅で始めた[2][3]。 同年早稲田大学の創設者大隈重信に要請され、キリスト教に基く学生寮『友愛学舎』を早稲田鶴巻町に創設、奉仕園の礎となる活動が開始された[7]。その後牛込弁天町に場所を移し、更に1920年(大正9年)現在の土地を購入して、友愛学舎のほか、スコットホール、スポーツ施設などを備えた学生センター『早稲田奉仕園』をつくる[2][3]。1917年(大正6年)には、東京女子大学の初代理事長にも就任した[3][4]。
長らく早稲田大学の講師も務め、また、日米間の相互理解と親善に努力するが、日米関係の悪化により1941年(昭和16年)志半ばにして帰国。再び日本に戻ることを願いながら、1949年(昭和24年)4月24日インディアナ州フランクリンで死去した[5][2][3]。
