ハンス・フェーレンベルク
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ハンス・フェーレンベルク Hans Vehrenberg | |
|---|---|
| 生誕 |
1910年3月6日[1] エムデン[1] |
| 死没 |
1991年8月2日(81歳没)[2] デュッセルドルフ[2] |
| 国籍 |
|
| 職業 | 税理士[3] |
| 著名な実績 | 写真星図の作成[4] |
| 代表作 |
Photographischer Stern Atlas (Falkauer Atlas), Atlas Stellarum 1950.0, Atlas der schönsten Himmelsobjekte (Atlas of Deep-Sky Splendors) |
ハンス・フェーレンベルク[5](独: Hans Vehrenberg、1910年3月6日 - 1991年8月2日)は、ドイツの税理士、法律家で、アマチュア天文家として有名である[2][3]。私設天文台をつくり、全天の撮影を実施してアマチュア天文家にも天文学者にも利用された写真星図を出版[1]。天体写真や天文雑誌の編集でも活躍した[6][7]。小惑星フェーレンベルクは、フェーレンベルクを記念して名付けられた[4]。
ハンス・フェーレンベルクは1910年3月6日にドイツ北東部エムデンで生まれた[1]。しかし、物心つく前から生涯、生活の拠点はデュッセルドルフにあった[1]。
少年時代から天文に夢中になったフェーレンベルクだが、税理士だった父親の勧めと世界恐慌後の不景気から、生計の手段となる進路を選択し、1930年にデュッセルドルフの大学に合格すると、法学の道に進んだ[1]。1935年に博士号を取得したフェーレンベルクは、父親の事務所で働きはじめた[1]。
第二次世界大戦が勃発すると、フェーレンベルクは従軍、戦傷、そしてソビエト連邦による抑留と、当時多くのドイツ人青年に共通の苦難を経験した末、1949年に帰郷した[1][8]。
その後、出版業へ手を広げて経営が悪化していた父の事務所の立て直しに奔走したフェーレンベルクだが、1955年頃からドイツ南部シュヴァルツヴァルトのファルカウという村に別荘を建て、1959年には個人天文台も設置して、少年時代の夢をかなえるべく観測を始めた[1][6]。
フェーレンベルクは全天の写真を撮影して星図を作ることを目指し、3年がかりで北天の撮影を果たして1962年に“Photographischer Stern Atlas”、通称『ファルカウ図』を出版した[3][9]。その後、南アフリカのボイデン天文台でファルカウでは観測できなかった南天の撮影を行い、1964年に『ファルカウ図』の南半球版も出版している[3][1]。フェーレンベルクはファルカウ図では飽き足らず、2度目の全天撮影に乗り出し、1970年には“Atlas Stellarum 1950.0”を発表した[1][6]。
フェーレンベルクは、星図づくりにだけ情熱を傾けていたわけではなく、その合間には、自ら撮影した写真から、メシエ天体の写真集“Mein Messier-Buch”を出版している[1][6]。その後、より充実した天体写真本“Atlas der schönsten Himmelsobjekte”を発表、この本は英語版の“Atlas of Deep-Sky Splendors”も作られ、広く読まれた[1][6]。
フェーレンベルクは1991年8月2日、デュッセルドルフにて81歳で亡くなった[2]。
業績

フェーレンベルクが最初に完成させた写真星図“Photographischer Stern Atlas”(ファルカウ図)は、ツァイス製の口径71ミリメートル、F3.5の天体写真儀で撮影を行い、全天で合計464枚の写真乾板から作成した[3][10]。写真等級が13より明るい恒星はほぼ網羅しており、1枚の星図は写野が10度角四方で、漏れがないように隣り合う星図は少しずつ重なり合っている[3][10][6]。星図は、観測記録向きの白地に黒い星で印刷したものと、夜間の視認向きの黒地に白い星で印刷したもの、2種類が用意された[10][11]。フェーレンベルクの星図は当時、アマチュアでも入手が難しくないほぼ唯一の写真星図であり、アマチュア天文家に重宝された[3][9][11]。
“Atlas Stellarum 1950.0”には、ツァイス製の口径120ミリメートル、F4.5の天体写真儀が用いられ、乾板1枚の写野は12度角かける16度角の大きさ、平均して14等より暗い恒星まで写っていた[6]。“Atlas Stellarum”は、アマチュア天文家だけでなく天文学者にも広く用いられるものになった[1]。
フェーレンベルクの優れた点は、観測計画や観測手法の一貫性にこだわったことにある[1]。もっと良い方法があると気付いても、途中で方針を変えることはしなかった[1]。そのおかげでフェーレンベルクの星図は、北天と南天で観測場所が異なる以外、とても均質性が高く、それが星図の有用性をより高めることになった[1]。
フェーレンベルクは自著の星図や写真集を、自身が経営する出版社 Treugesell-Verlag から出版している[1]。ビジネス書や会計用品を扱う出版社だった Treugesell は、フェーレンベルクの著作のほか、ボーデの星図の復刻や、星座手帳の発売などを手がけ、天文分野の出版で知られるようになった[1][8]。フェーレンベルクは仕事を生かして、月刊天文誌『星と宇宙』にも関わった[7][8]。『星と宇宙』誌の共同編集者として編集作業を行い、雑誌発行のために出版社 Sterne und Weltraum 社の設立にも協力した[1][7]。
フェーレンベルクは、南天の観測のために南西アフリカ(後のナミビア)にも私設天文台をつくり、ナミビア第3位の2347メートルの標高があり、山頂には平坦地が広がるガムスベルク山でも撮影を行っていた[12][13][14]。ガムスベルクの近くにあり、フェーレンベルクと親交のあった宿が備える天体観測施設は、フェーレンベルクを偲んで、フェーレンベルク天文台と名づけられている[13][15]。