ハンフリー・スタッフォード (初代デヴォン伯)

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出生 1439年ごろ
死去 1469年8月17日
イングランド王国の旗 イングランド王国サマセット、ブリッジウォーター
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国サマセット、グラストンベリー修道院
ハンフリー・スタッフォード
Humphrey Stafford
初代デヴォン伯
フックとサウスウィックのスタッフォード家の紋章:金地に赤いシェブロンと黒い縁飾り。サー・ハンフリー・スタッフォード(1413年没)によって最初に採用されたが[1]、先祖であるスタッフォードシャーのアトックゼター近郊のブラムシャルのウィリアム・ド・スタッフォードの紋章であった。ウィリアムは、スタッフォード城のロバート3世・ド・スタッフォード(1193/4年没)の妹で相続人でもあるミリセント・ド・スタッフォードの次男であり、夫ハーヴェイ1世・バゴット(1214年没)との間に生まれた。
在位 1469年5月17日 - 8月17日

出生 1439年ごろ
死去 1469年8月17日
イングランド王国の旗 イングランド王国サマセット、ブリッジウォーター
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国サマセット、グラストンベリー修道院
配偶者 イザベル・バール
家名 スタッフォード家
父親 ウィリアム・スタッフォード
母親 キャサリン・チディオック
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ハンフリー・スタッフォードが支配した地域であるウェスト・カントリーの地図。

初代デヴォン伯ハンフリー・スタッフォード(Humphrey Stafford, 1st Earl of Devon, 1439年ごろ[注釈 1] - 1469年8月17日[3]は、15世紀半ばのイングランド南西部の有力貴族であり、薔薇戦争にも参加した人物。スタッフォード伯の遠縁にあたり、相続財産によってドーセット最大の地主となった。後にハンフリーは、エドワード4世により急速に昇進させられた一人となり、ランカスター派の死去や没落によって生じた権力の空白を埋めた。特に西部地方において、ランカスター派のコートネイ家の没落はハンフリーに利益をもたらした。1469年、ハンフリーはコートネイ家の保持していたデヴォン伯位を授かった。

ハンフリーがこの爵位を保持したのはわずか3ヶ月間であった。7月、不満を抱いたウォリック伯が扇動した反乱を鎮圧するため、ハンフリーは北部へ派遣された。ハンフリーは悲惨なエッジコート・ムーアの戦いを逃れたものの、1469年8月17日にブリッジウォーターで暴徒により殺害された[3]。多くの人から野心過剰な男だと思われていたが、それでも有能な行政官であり、国王から絶対的な信頼を得ていた。

ドーセットのフックとウィルトシャーのサウスウィックのスタッフォード家は、スタッフォード伯、そして後にバッキンガム公となる家の分家であった。ハンフリーの祖父は「銀の手の」と呼ばれた[注釈 2]サー・ハンフリー・スタッフォード(1442年没)であった。祖父の跡継ぎは孫で、同名のハンフリー・スタッフォードであったが、1461年に子供を残さずに亡くなった。そのため、後にデヴォン伯となるハンフリーが一族の領地を相続することになった。領地の大部分はドーセットにあり、残りはサマセットとウィルトシャー(サウスウィック・コートを含む)にあった。ハンフリーの父ウィリアム・スタッフォード(1450年没)は、1450年6月18日のジャック・ケイドの反乱の犠牲となり、この時点で既に亡くなっていた[2]。ウィリアムの叔父であり、ハンフリーの大叔父にあたるのが、カンタベリー大司教ジョン・スタッフォード(1443年 - 1452年)である[3]

ハンフリーはこれらの家系の土地を相続し、ドーセット最大の地主となった。母キャサリンを通して、ハンフリーは母の父ジョン・チディオック(南西部のもう一人の大地主)の財産も相続した[3]。ある時点で―1450年6月21日以降―ハンフリーはヘレフォードシャーのサー・ジョン・バールの娘イザベルと結婚した[2]

ヨーク家の臣下として

1450年代後半、ハンフリーは遠縁のウィルトシャー伯ジョン・スタッフォード(バッキンガム公ハンフリー・スタッフォードの息子)に仕えていた可能性がある。ウィルトシャー伯の側近であったオードリー男爵ジェームズ・タシェットとの親交がそれを示唆している[3]。もしそうであれば、これは進行中の内戦において、ヨーク家よりもランカスター家に忠誠を誓った短いエピソードを物語っている。1460年、二人はギネに派遣され、そこに駐留していたイングランド軍を救援した。悪天候のため、二人はヨーク派の指導者であるウォリック伯リチャード・ネヴィルが守っていたカレー港に入港せざるを得なかった。ここで二人はヨーク派のために徴兵された[3]

ハンフリーはモーティマーズ・クロスの戦いに参加し、1461年2月2日にマーチ伯エドワード率いるヨーク軍が大勝利を収めた。同年3月29日のタウトンの戦いの後、ヘンリー6世の廃位後に即位していたエドワード4世によりハンフリーは騎士とされた[5]。同年7月26日、ハンフリーはサウスウィックのスタッフォード卿として初めて議会に召集された[2]。その後数年間にわたり、国王はハンフリーに数多くの土地と官職を与えた[6]。1461年にハンフリーはコーンウォール公領執事とブリストルの執政に任命され、1462年にはタウトンで捕らえられ処刑されたデヴォン伯トマス・コートネイのデヴォン領の大部分を譲り受けた[3]。1464年にハンフリーはダートムーアの管理人に任命され、1467年にはコートネイ家の荘園をも与えられた[3]

ハンフリーは、国王の寛大さに報いるため、当時までランカスター派の勢力が強かった地域で、地方長官として忠実に国王に仕えた[5]。1460年代を通して、ハンフリーはウェスト・カントリー全域の四季裁判所やその他の法廷で裁判長を務めた[3]。ハンフリーの活動は法廷活動だけにとどまらず、1461年から1462年にはスコットランドに対する軍事行動に従事し、1468年にはブルターニュとの外交を行った[3]。1469年には枢密院の一員として認められ、トマス・コートネイの弟ヘンリー・コートネイを反逆罪で有罪とする委員会に参加した[5]。年代記作者ジョン・ワークワースによると、ヘンリーの失脚はハンフリーの策略によるもので、ハンフリーはさらなる領地を報酬として与えられ、1469年5月17日にデヴォン伯に叙された[7]。しかし、国王自身もヘンリー・コートネイに対する裁判に大きな関心を持っており、その決定はエドワード4世がその地域に忠実な代理人を必要としていた結果であると見る方が合理的である[8]

死とその後

ウォリック伯の反乱は、1471年のバーネットの戦いにおけるウォリック伯の死で終わった。ここでは15世紀後半の写本の挿絵に描かれている[9]

デヴォン伯の急速な台頭は、既存の貴族階級の注目を集めた。1468年、不満を抱いたウォリック伯は、デヴォン伯をエドワード王に不当な影響力を持つ廷臣として指名した[10]。ウォリック伯とデヴォン伯は後に和解したが、翌年、ウォリック伯は再びデヴォン伯を非難した[11]。自ら反乱を起こす代わりに、ウォリック伯はヨークシャーで「ロビン・オブ・レズデール」[注釈 3]率いる反乱を扇動した。同時に、ウォリック伯はエドワード4世の弟であるクラレンス公ジョージと共に、ウォリック伯の拠点であるカレーから侵攻を開始した。デヴォン伯はペンブルック伯ウィリアム・ハーバートと共に、反乱鎮圧のための軍勢集結を命じられた[5]

デヴォン伯とペンブルック伯率いる王軍は、ウォリック伯とクラレンス公に合流するために南下する北軍の反乱軍をオックスフォードシャーのバンベリーで迎撃した[5]。その後の出来事は明らかではない。ワークワースによると、デヴォン伯とペンブルック伯は宿舎の取り決めをめぐって口論し、デヴォン伯は弓兵の大半を率いて出発した。翌日の1469年7月24日、ペンブルック伯はエッジコート・ムーアの戦いで反乱軍と対峙したが、デヴォン伯の弓兵を欠いていたため完敗した[13]。しかし、フランスの歴史家ジャン・ド・ウォーランは異なる記録を残している。ウォーランによると、デヴォン伯はクラレンス公が援軍を率いて到着するという知らせを聞くと戦場を離れたという[14]。いずれにせよ、ペンブルック伯はウォリック伯の命令で捕らえられ、処刑された[15]。デヴォン伯はなんとか逃亡したが、後にサマセットのブリッジウォーターで暴徒に捕らえられ、8月17日に処刑された[3]

ハンフリーは死去した時点でデヴォン伯位に就いてちょうど3ヶ月しか経っていなかった。ハンフリーとイザベルには子供がいなかったため、ハンフリーの死とともにデヴォン伯位は消滅した。翌年、コートネイ家最後のデヴォン伯トマスの弟であるジョン・コートネイによって爵位は復活した[16]。ハンフリーはグラストンベリー修道院に埋葬されたが、その後、ハンフリーの領地をめぐって従兄弟たちの間で争いが続いた[3]

ハンフリーは多くの同時代の人々から野心家で無節操な人物とみなされていた。これは、ワークワースがヘンリー・コートネイの失脚にハンフリーを関与させたこと、そしてウォリック伯がハンフリーをエドワード4世の悪しき顧問の一人として標的にしたことからも見て取れる。この傾向は現代の歴史家たちも取り上げており、チャールズ・ロスはハンフリーを「貪欲で野心的な男」と呼んでいる[6]。同時に、エドワード4世がハンフリーに強く依存していたことからもわかるように、ハンフリーの行政手腕は疑いようのないものであった。ハンフリーはより人間的で思いやりのある一面も見せることができた。マイケル・ヒックスは、1467年以降、ハンフリーが遺言に「自分が犯したと自覚していた過ちを正すため」に補遺を付け加えていたと記している。最後の補遺は、自らの処刑を前にして付け加えられたものであった[3]

注釈

脚注

参考文献

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