それまでの戦いにおいて、ウォリック伯はエドワード4世を玉座に就けるために尽力したヨーク派の功労者の1人であった。だが1469年にはエドワード4世と袂を分かち反乱を起こした。タウトンの戦いにおける勝利から8年経って、明らかに事態は変わっていたのである。
実際、タウトンの戦いの後、数年間は国政はウォリック伯に委ねられていた。1464年、ウォリック伯はランカスター派擁護を標榜するフランスとの外交交渉の真っ只中にいた。彼はこの外交問題は、エドワード4世がフランスの王女と結婚する事で解決できると考えていた。ウォリック伯はフランス国王ルイ11世にフランス王女との結婚をもちかけて交渉を進めたが、間もなく衝撃的な事実が知らされて大恥をかく事になる。実は、エドワード4世はその半年前に平民であるエリザベス・ウッドヴィルと密かに結婚していたのである。後々、エリザベス・ウッドヴィルの兄弟姉妹はイングランド中の有力貴族と結婚していく。 これらの結婚の多くが何らかの形でウォリック伯の心象を害した。少なくともそのうちの1つは、彼の家名に泥を塗るものだった。
ウォリック伯は、自分の娘イザベル・ネヴィルをクラレンス公ジョージと結婚させるのに、エドワード4世に何度も拒絶された事にも腹を立てていた。エドワード4世はそれが政略結婚以外の何ものでもないと偽善的に指摘した。
ウォリック伯は既に国政に関して、行使どころか影響さえ与えられなくなっていた。増大するウォリックの不満にもかかわらず、エドワード4世と彼の新しい政権は誰も、その不満が反乱に至る程のものとは考えていなかった。しかしウォリック伯としては反乱を起こす動機としては充分であり、ここでウォリック伯の気持ちが反乱に転じた。この反乱の同志として、次期イングランド王を餌に、クラレンス公も加わっていた。
北方の小さい反乱を鎮圧するため、国王がそちらに向かった。その留守を狙って、ウォリック伯はスパイを使って、エドワード4世が実は私生児であり、クラレンス公こそがヨーク家の正当な後継者であるといううわさを広めた。
北方で、ウォリック伯の部将で「レデスデールのロビン(Robin of Redesdale)」と名乗る人物(実はウィリアム・コンヤーズ卿(Sir William Conyers))が新たな反乱を起こした。この知らせを聞いたエドワード4世は、反乱が容易に鎮められるであろうと少数の兵だけを召集した。だが間もなく彼は、この反乱軍が自分が召集した軍よりも大勢であることを知り、補充兵を集めるためにノッティンガムに向けて後退した。不幸にもエドワード4世にはかつての人気はなく、軍の補充もままならなかった。エドワード4世はノッティンガムで、南から軍を率いてくる、ペンブルック伯とデヴォン伯を待つ事にした。
7月12日、ウォリック伯とクラレンス公は反乱軍に対する支援を表明した。18日、ウォリック伯は反乱軍を支援するために、軍を率いてロンドンを発った。
反乱軍はウォリック伯に合流するため、急いで国王の軍を迂回して南進した。だがエッジコート・ムーアで、ペンブルク伯・デヴォン伯の軍と遭遇した。両軍は25日に相手の存在に気づき、26日の早朝に戦端を開いた。