ハンムラビ
都市国家バビロン第6代王、バビロニア帝国初代王
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名前の語源
ハンムラビの名は出土する楔形文字の文書にḪA-AM-MU-RA-BIの5字、あるいは稀にḪA-MU-RA-BIの4字のつづりで表記されている。
楔形文字はもともとシュメール語を表記するための文字であるため、セム語派の言語を表記すると音素の区別が不十分になる問題が生じる。文書の地の文は東方セム語のアッカド語で記されており、この語ではセム語派独特の音素の消失がある程度起きているほか、楔形文字による表記の歴史が長いため、表記法が工夫されている。しかし、ハンムラビは同じセム語派でも楔形文字の表記の歴史が浅い西方セム語のアムル語を用いるアムル人である。アムル人のアムル語人名は楔形文字では不十分にしか表記されておらず、語義の解釈の障害となる。
名の構成に関しては、「ḪA-AM-MUはRA-BIである」という解釈で研究者の意見が一致しているが、音素が不完全にしか再現できないため、ḪA-AM-MUとRA-BIの意味の解釈で見解が分かれている。
前半のḪA-AM-MUに関しては、共通セム語で「義理の父」を意味する ḥamu とする説とアラビア語などで「父方のおじ」を意味する ̔mmu とする説があるが、マリ文書でもハンムラビはḪA-AM-MU-RA-BIと表記されており、なおかつこの文書群の楔形文字では ḥamu がA-MU(-UM)、 ̔mmu がḪA-AM-MUと表記されていることから、ḪA-AM-MUを後者で解釈し、ḫammu と読むのが妥当とされる。また、アムル人の人名に組み込まれた神名には親族語彙で呼ばれるものがよくあることが知られているため、前半に関しては「(父方の)おじさん(と呼ばれる神)」であるとされる。
後半のRA-BIに関しては、rabi と読んで「偉大である」とする説と、rāpi と読んで「治療者」とする説がある。前者は楔形文字に pi の音を表記する文字があるのにハンムラビの名の表記に用いている例がないこととアララク文書でハンムラビの名の表記に rabi を意味する表意文字が用いられている例があることを根拠としており、後者は b と p の書き分けが可能なウガリト文字で書かれたウガリト文書に記された王名に mrp または ̔mrpi と表記されたものがあり、これがハンムラビと同名の他人であるとする説を根拠としている。
以上から、ハンムラビの名の発音と意味の解釈は、
- Ḫammu-rabi と読んで「(父方の)おじさん(と呼ばれる神)は偉大である」と解釈する
- Ḫammu-rāpi と読んで「(父方の)おじさん(と呼ばれる神)は治療者である」と解釈する
2説が代表的なものとなっている。
治世

イシン・ラルサ時代
父シン・ムバリット (紀元前1812年 - 1793年)の時代にはまだ小規模の王国であり、強国に囲まれていた。南ではラルサがシュメール地方、北ではエシュヌンナ王国と上メソポタミア王国、マリ王国、東ではエラムの王国がチグリス川東岸を支配していた。紀元前1850年頃は、それぞれの勢力がメソポタミア地域における覇権を争っていた[2]。
メソポタミアの再統一
紀元前1792年、ハンムラビはバビロン第1王朝の第6代目の王となった。当初はイシン、ラルサ、マリといった当時メソポタミアに覇を競った大国に挟まれ、北方のエカッラトゥムにシャムシ・アダド1世、南方のラルサにリム・シン1世が健在であった。ハンムラビは小国の王であったが、従属する形で上メソポタミア王国のシャムシ・アダド1世と同盟し、次第に領域を拡大させていった。ハンムラビは紀元前1787年頃に、南のラルサ王国に対して軍事行動を開始した。この遠征では紀元前1785年までにリム・シン1世からイシンとウルクを奪取したが、長期的な支配をすることは叶わず、再びラルサに奪い返された[3]。
紀元前1784年ごろには南部への遠征を中断し、進路を北方へ変えてティグリス川を渡河、この辺の主要都市マルギウムを征服した。西では、ユーフラテス川流域のラピクムを占領した[3]。
紀元前1775年ごろにシャムシ・アダド1世が没すると、バビロンのハンムラビ、マリのジムリ・リム、エシュヌンナのイバル・ピ・エルという有力な王が各国で並び立つ勢力均衡の時代が訪れた。ハンムラビはジムリ・リムと外交関係を結んだほか、エシュヌンナとも友好関係を築き、自国の勢力の維持に努めた。しかし、紀元前1765年ごろに東方のエラムが攻勢を強め、エシュヌンナ王国を一時的に支配し、領土問題を口実にバビロンへ侵攻してきた。ハンムラビはジムリ・リムやヤムハドの王の支援を受けてエラム軍を撃退することに成功した[3]。
紀元前1764年には対エラム戦で中立を貫いたことを理由にラルサへ侵攻、6か月にわたる包囲戦の末に併合した。その後南方の諸都市を征服してバビロニア南部の完全な支配を達成した。紀元前1759年にはマリを破壊してマリ争奪戦に決着をつけた[3]。
紀元前1757年頃、上メソポタミア王国へ出兵して征服、紀元前1755年には水攻めを敢行してエシュヌンナを陥落させてメソポタミア地方を統一した[3]。バビロンを中心都市とするバビロン第一王朝がシュメール及びアッカドの地を再統一したことにより、「シュメール及びアッカドの地の王」の地位を獲得した。統一されたこの地域はバビロニアとも呼ばれるようになった[3]。
ハンムラビ法典
ハンムラビは『ハンムラビ法典』と呼ばれる法典を確立したことで有名である。『ハンムラビ法典』はそれまでの西アジアの「法典」と異なり、被害者や加害者の身分によって刑罰に違いを付け、身体刑を科すという特徴がある。『聖書』にある「目には目を、歯には歯を」という言葉は『ハンムラビ法典』に遡ることができ、同害復讐法体系との関連が指摘されている。ハンムラビはこのほかにも、灌漑手段改良への援助を行うなど、バビロニアの改良に努めた。
また、ハンムラビ法典の条文自体は法的拘束力を持たず、ウルナンム法典から続くメソポタミア地域の王による理念の表象であり、模範的な決裁を具体的に表すものとされた[4]。
最後
ハンムラビは、紀元前1750年の8月頃に死ぬまで王として統治した[3]。周辺諸国の征服を完了させたことで、晩年はバビロンやシッパルなど中心都市の治水工事を行っていたとされる。死亡年は、紀元前1750年、あるいは年代測定法の違いにより紀元前1728年から紀元前1686年までにわたる。
死後
息子のサムス・イルナが後を継いだが、ウルクを筆頭とする南バビロニア諸都市の反乱やカッシート人の侵入などが起き、衰退期に入る。紀元前1595年、バビロン第1王朝第11代の王サムス・ディターナの治世に、ムルシリ1世に率いられたヒッタイト人の急襲に遭い、バビロニア王国は壊滅した[3]。すぐに、アグム・カクリメ王(Agum Kakrime)に率いられたカッシート人が奪回した。多くの都市の反抗に遭いながらも、カッシート人は400年にわたって支配を続け、ハンムラビ法典を尊重した。