バルカン戦線 (第二次世界大戦)
第二次世界大戦の一部
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戦いの背景
第一次世界大戦の結果、それまでバルカン半島に大きな影響を与えていたオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国、ロシア帝国が崩壊し、ユーゴスラビア王国が変わって台頭するなど、バルカン半島の政治情勢は大きな変化を見せ始めた。
一方でイタリア王国は、「未回収のイタリア」の奪還要求とともにファシズム勢力が台頭し、ユーゴスラビアやアルバニア、ギリシャ王国とたびたび紛争を起こしていた(コルフ島事件)。また第一次世界大戦で敗北し、領土を喪失していたブルガリア王国やハンガリー王国も失地奪回の期をうかがっていた。
ユーゴスラビア王国はルーマニア王国・チェコスロバキアと小協商を形成し、フランスを後ろ盾にイタリアやハンガリー、そしてソビエト連邦に対抗しようとしたが、宥和政策に傾いたフランスの東欧への影響力は次第に低下し始めた。またユーゴスラビアやギリシャ王国・ルーマニア王国はいずれも政情不安定であり、軍事侵攻に十分対応できるとは思われていなかった。
1930年10月、ブルガリア国王ボリス3世はイタリア王妃ジョヴァンナ・ディ・サヴォイアと政略結婚。この結婚には、イタリアとブルガリアの共通の仮想敵であるユーゴスラビア及びギリシャへの牽制という目的があった。
1934年2月、ギリシャ、ルーマニア、トルコ、ユーゴスラビアの四カ国によってバルカン協商が結成された。その狙いは、ブルガリアの失地回復主義を牽制する事だった。
同年10月、フランスのマルセイユにて、多民族国家ユーゴスラビアにおける、セルビアによる他民族弾圧に不満を持ったブルガリア民族主義組織内部マケドニア革命組織とクロアチア民族主義組織ウスタシャによってユーゴスラビア王アレクサンダル1世が暗殺された。
1939年4月、イタリアのアルバニア侵攻によってアルバニアはイタリアの傀儡国となり、バルカン諸国にも緊張が走った。イギリスはギリシャとルーマニアに安全保障を行ってこの動きを牽制しようとしたが、9月にはナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まった。
イギリスはバルカン情勢に介入しないことで、イタリアを中立国のままにしておく政策をとった。しかし1940年にイタリアはイギリスとフランスに宣戦布告し、地中海とアフリカで英仏と戦うことになった。地中海の要衝であるギリシャの存在感はさらに高まったが、イギリスの防衛構想の中心はエジプト王国におかれていた。さらにドイツとイタリアは第二次ウィーン裁定によってハンガリー・ルーマニアを、さらにクラヨーヴァ条約によってブルガリアも影響下に置いた。
戦いの経過
イタリアのギリシャ侵攻
1940年10月28日イタリアは、ギリシャが中立違反をしており、イタリアと戦おうとしていると通告した。ギリシャはこれを事実上の宣戦布告と受け取ったが、実際同日にイタリアのギリシャ侵攻が開始された。ギリシャはアルバニアまで逆侵攻する奮戦をみせた。さらにドイツ軍の南下をおそれたイギリスが1941年3月から本格介入を行ったが、その作戦方針は防衛中心のものだった。
バルカン諸国、枢軸国へと加盟

ドイツは石油の輸入をルーマニアのプロイェシュティ油田に依存していた。一方のルーマニアも、領土をソ連に外交的に奪われており、同国によって安全保障を脅かされていたため、ドイツの後ろ盾を必要としていた。こうして両国の利害が一致したため、ルーマニアは三国同盟に加盟。
一方、ドイツはソ連がブルガリアでの影響力を拡大しようとしている事を知ると、それを防ぐためにブルガリアの三国同盟加盟を望んだ。一方のブルガリアは、失地回復主義の野望はありながらも、先の大戦で多大な犠牲を払ったことを教訓に中立を保つことを望んでいた。しかし、ブルガリアは北方の枢軸国ルーマニアと南方の連合国ギリシャ、そして西方の親連合国のユーゴスラビアに囲まれた国であり、ルーマニアとの領土問題は前述したクラヨーヴァ条約で解決していたのに対し、ギリシャ及びユーゴスラビアとの領土問題が未解決だった。こうしてブルガリアは、クラヨーヴァ条約におけるドイツの借りを返すという意味も含めて1941年3月1日に三国同盟に加盟。これによりドイツ軍は、ルーマニア同様枢軸国になったブルガリアの首都ソフィアに進駐し、ギリシャやユーゴスラビアに対する牽制をした。
ユーゴスラビア侵攻
バルバロッサ作戦を控えていたドイツは同盟国イタリアのバルカン政策を容認しつつ、自らは外交的圧力によるバルカン支配を進めていった。しかしユーゴスラビアが一度は枢軸国入りを果たしたものの、親英的であった軍のクーデターにより親独政権が打倒され、同盟を破棄してしまう。バルカンの不安定化により、遠征の際に後方を脅かされかねない状況下に追い込まれたドイツは、バルバロッサ作戦を延期してバルカンへ軍事介入を行う事を決断する。こうしてドイツは、ユーゴスラビアと領土問題を抱えるイタリア、ハンガリー、ブルガリアと共同でユーゴスラビアへの侵攻を開始。その際、セルビア主導の国家運営に反発していたカトリック教徒の多いクロアチアが枢軸国との共闘を掲げてユーゴスラビアへの蜂起を開始。
ユーゴスラビアはソ連に支援を求めたが拒否され、首都ベオグラードがドイツ空軍による爆撃を受け、14日に降伏。同国はドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアによって分割された。以後、ユーゴスラビア共産パルチザンやセルビア民族主義組織チェトニックはゲリラ戦を挑み対枢軸抵抗を行った。
クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナの統治はクロアチア主導で行われ、秘密警察を設置、反政府セルビア人を弾圧した。また、チェトニックも(非戦闘員を含む)クロアチア人、ムスリム人(現ボシュニャク人)やアルバニア人等を虐殺し、ユーゴスラビア共産パルチザンも村に放火を行うなどの非道な行為を行った。これは、20世紀末のユーゴスラビア紛争でセルビア軍のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボでの「民族浄化」の名を借りた民族虐殺の遠因となった。
ギリシャ侵攻
ユーゴスラビアを下したドイツ軍は4月10日、そのままギリシャ本土とエーゲ海島嶼部へ軍を進めた(いわゆる「マリタ作戦」)。北アフリカから輸送船団を送り込み、挟撃されたイギリス軍とギリシャ軍は総崩れとなり、4月27日首都アテネが陥落、4月30日にはペロポネソス半島から戦車など重機材を遺棄してクレタ島へ撤退、ギリシャ本土はドイツ・イタリア両軍の共同統治下に置かれた(ピンドス公国・マケドニア公国)。また、東マケドニア地方はギリシャから分割され、ブルガリア領となった。
クレタ島の戦い
クレタ島の制圧は、枢軸国は空母を持たないイタリア艦隊頼みで、空母を保有するイギリス艦隊が有利であり、難航した。5月20日、クレタ島への攻撃が開始されたが、輸送船団はイギリス艦隊に襲われ上陸できず、空挺部隊が投入された。軽装備の空挺部隊は死者5,700人と言う大損害を出したが、5月29日クレタ島を制圧した。
その後
ギリシャ、ユーゴスラビア両政府は亡命政府となって抗戦を継続したが、イギリスの主戦場は北アフリカに移っており、1944年10月の連合国軍のギリシャ上陸まで、バルカン半島において枢軸国と戦うのは各国のパルチザンが主体であった。アルバニアやユーゴスラビアはほとんどパルチザンによる国土解放がなされた結果、両国は戦後構造においても独自色を持つことになる。同様にギリシャでもパルチザンが台頭し、帰国した王国政府とギリシャ内戦を繰り広げることとなる。
影響
作品
映画
- 『ナバロンの要塞』(J・リー・トンプソン監督、1961年 出演:グレゴリー・ペック、デヴィッド・ニーヴン他)
- 『ネレトバの戦い』(ヴェリコ・ブライーチ監督、1969年 出演:ユル・ブリンナー、オーソン・ウェルズ他)
- 『旅芸人の記録』(テオ・アンゲロプロス監督、1975年 出演:エヴァ・コタマニドゥ、ペトロス・ザルカディス他)
- 『コレリ大尉のマンドリン』(ジョン・マッデン監督、2001年 出演:ニコラス・ケイジ、ペネロペ・クルス他)
漫画
ゲーム
- コマンドマガジン日本版第18号『バルカン電撃侵攻戦』国際通信社