パウル・グリュンマー
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1879年2月26日、チューリンゲン地方東部ゲーラに生まれる[1]。父のデトレフはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン出身の宮廷音楽家で、ゲーラのロイス侯爵邸のオーケストラのコンサートマスターを勤めたり、室内楽の演奏を行ったりした[1][2][3]。
8歳の時から父よりヴァイオリンを習い、14歳になると、フリードリヒ・グリュッツマッハーの弟子であり、ゲーラ市のオーケストラのチェリストを務めたエミール・ベーメ、および宮廷音楽家のフリードリクスからチェロのレッスンを受けた[2][3]。その後、ライプツィヒ音楽院でユリウス・クレンゲルとフーゴー・メラーに師事し、さらにフランクフルトでフーゴー・ベッカーに師事した[1][4][5]。また、ウジェーヌ・イザイ、アルトゥール・ニキシュを芸術上の模範とした[3]。
1898年にドイツ、ラトヴィア、ヨーロッパ各地でコンサートを開いたのち、1902年にはイギリス王、イギリス王妃の前で演奏を行い、コヴェント・ガーデンを中心にソリストとしての活動をアメリカやヨーロッパ各地で展開した[1][2]。ヴィルヘルム・バックハウス、ヤン・クーベリック、ブロニスワフ・フーベルマン、ヴァーシャ・プシホダ、フランツ・フォン・ヴェチェイらと共演するとともに、自身のオーケストラを組織して演奏旅行を行ったり、1905年にはウィーン楽友協会オーケストラ、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のソロ・チェリストに就任したりした[6][2]。また、ドイツ各地の宮廷や、イギリスの王宮でも演奏を行った[3]。
室内楽の分野でも、ヤン・クーベリック弦楽四重奏団の一員として活躍するとともに、1919年にはブッシュ弦楽四重奏団の創立に携わった[1][6]。第1ヴァイオリンはアドルフ・ブッシュ、第2ヴァイオリンはカール・ライツ、ヴィオラはエミール・ボーンケという布陣で、ベルリンで創設したのち、デュッセルドルフのリッターザールでデビューコンサートを行った[7]。その後は各種弦楽四重奏曲のレコーディングを行ったり、ソリストとしてブラームスの『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』をブッシュと共演したりしたが、ナチス・ドイツが台頭すると、ナチスの支持者であったグリュンマーと他の3名が対立し、1930年に脱退した[7][8][† 1]。なお、グリュンマーの後任はヘルマン・ブッシュであった[8]。
ウィーン、ケルン、ベルリンなどで教鞭を取ったのち、1946年に引退し、スイスのツオリコンに移住して後進の指導を行った[6]。また、生地ゲーラの名誉市民となった[10]。1965年10月30日に永眠し、スイス中北部のツークに葬られた[6][10]。
作曲活動など
同時代の作曲家との交流
エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ、パウル・グレーナー、ユリエ・キルピネン、アレクサンドル・チェレプニンらがグリュンマーに曲を献呈した[10]。また、マックス・レーガーは『無伴奏チェロ組曲イ短調 作品131c』を、ルドルフ・モーゼルは『ヴィオラ・ダモーレとガンバ、および弦楽オーケストラのための二重協奏曲 作品74』を献呈した[10]。
ヴィオラ・ダ・ガンバの復興者として
1925年に『ヴィオラ・ダ・ガンバ演奏法』を、1928年に "Viola da Gamba Schule für Violoncellisten und Freunde der Viola ga Gamba" を出版し、ヴィオラ・ダ・ガンバの復興に尽力した[6][12]。チェンバロ奏者ワンダ・ランドフスカとのリサイタルなどのソロ活動を行うとともに、他の古楽器とのアンサンブルも行っており、チェンバロ奏者のギュンター・ミラン、ヴィオラ・ダモーレ奏者にしてグリュンマーの配偶者であるマルゴ・グリュンマー、同じくヴィオラ・ダ・ガンバ奏者である娘のシルヴィアらと共演した[12][10]。グリュンマーは、古い音楽をオリジナルの楽器で演奏することを志向していた[10]。
また、グリュンマーはマルタン・ベルトーらのチェロの通奏低音ソナタについて、本来はヴィオラ・ダ・ガンバのために作曲されたと主張したが、チェロ研究家のエリザベス・カウリングはこれを否定している[13][14][15][16]。
教育活動
レコーディング
1922年、ブッシュ弦楽四重奏団の一員として、ハイドンのセレナーデ全曲、モーツァルトの『弦楽四重奏曲第21番』の第2楽章と第3楽章、シューベルトの『弦楽四重奏曲第15番』の第3楽章、ヴェルディの『弦楽四重奏曲 』の第3楽章をシンポジウム・レーベルに録音した[8]。