1435年6月1日未明、イギリス軍の防御が崩壊したのを利用して、ムランとラニー近郊にいたアルマニャック軍がパリ北部郊外のサン=ドニを占領した。これによりパリはセーヌ川を含め封鎖され、川や他の陸地から物資を供給することが困難になった。しかし、フランスはシャルルが味方をしているアルマニャック派とイングランドが味方をしているブルゴーニュ派とで対立しており、内紛で短期占領に至らなかった。
7月からアラスでフランスとブルゴーニュとの会議が行われ、9月21日にアラスの和約 (1435年)が締結されて内紛が終結、フランスとブルゴーニュは同盟を結ぶことになった。しかし、その間にサン=ドニでの戦闘が激しさを増し、10月4日にフランスはサン=ドニを放棄することになり、パリも多少は補給が可能になった。その後は戦線が動かず、冬を越して1436年の春を迎えた。この間にパリの穀物価格が2か月で4倍に跳ね上がるなど、パリ市民は食料に苦しめられた。
4月6日、ブルゴーニュの味方を付けたフランス軍がサン=ドニにて陽動作戦を仕掛けた。シャルルがパリにいる上流階層に恩赦を与え、サン=ドニにて暴動を引き起こしたのだ。イングランド軍はその暴動の鎮圧に当たり、戦闘が続く中で13日にはリッシュモンがパリの城壁に姿を表し、手薄になったイングランド軍を攻めた。市民は混乱し、イングランド軍はフランス軍や市民から攻撃を受ける格好になった。一時サンタントワーヌ・バスティーユまで撤退したが、それでもフランス軍の攻撃が激しく、17日にイングランド軍はルーアンは全面撤退したことで、フランスはパリの奪還に成功した。