パーシー・メイフィールド

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ジャンル
パーシー・メイフィールド
生誕
死没
ジャンル
職業
担当楽器 ボーカル
活動期間 1947年 - 1984年
レーベル
共同作業者 レイ・チャールズ

パーシー・メイフィールドPercy Mayfield1920年8月12日 - 1984年8月11日[3]は、アメリカ合衆国ブルース歌手[2]。滑らかなヴォーカル・スタイルが特徴。彼はまたソングライターとしても活動し、"Please Send Me Someone To Love"を始め、レイ・チャールズの代表曲として知られるようになった"Hit The Road Jack"(邦題:旅立てジャック)などを世に送り出している[2]

メイフィールドは、ルイジアナ州北西部に位置するウェブスター郡の郡庁所在地、ミンデンにて生まれた[4]。幼い頃から詩を書くことに才能を発揮し、それが後にソングライティング、並びに歌手活動につながった。彼は、テキサス州でキャリアをスタートさせ、1942年にはロサンゼルスに拠点を移したものの当初はヒットに恵まれることはなかった。1947年、零細なレコード・レーベル、スウィング・タイム・レコードと契約し、"Two Years of Torture"をレコーディング。この曲にはサックス奏者にマックスウェル・デイヴィス、ギタリストにはチャック・ノリス、ピアニストにはウィラード・マクダニエルといった面々をそろえたバンドが付いた[5]。このレコードはその後数年間に渡り好調な売り上げを記録し、このことが1950年にアート・ループのスペシャルティ・レコードとの契約につながった [6]

メイフィールドのヴォーカル・スタイルは、チャールズ・ブラウンのようなスタイルの歌手に影響を受けているが、他の多くの西海岸のブルースマンとは異なり、白人向けの市場に注力することはなかった。彼は、その自作中心のブルース・バラードを優しいヴォーカル・スタイルで歌った。最も著名な彼の歌"Please Send Me Someone To Love"は、1950年後半にR&Bチャートの1位を獲得するヒットとなった。音楽評論家のビル・ダールによって「多層的で普遍的な嘆き」と評された[5]この曲は、幅広い影響力を持ち、多くのアーティストにカバーされている [7]。その後"Lost Love"、"The Big Question"を始め6曲を相次いでR&Bチャートのトップ10に送り込む活躍を見せ、ブルース・バラード・シンガーとしての彼の主導的地位、そして心の奥底に眠る傷ついた感情と哀愁を表現する真の名手たる立場は不動のものとなった[8][5]

人気の絶頂にあった1952年、メイフィールドはラスヴェガスでの公演を終えてロサンゼルスへ帰る途中、お抱え運転手が運転する自動車の助手席に座っていて自動車事故に遭い、重傷を負った。彼の乗る自動車は陰に隠れた停車中のトラックの後部に激突し、その際車の破片が彼を直撃した。メイフィールドは現場で死亡宣告されたものの一命は取りとめた。しかし体調の回復までに2年を要した。[9] この事故によって彼の顔には傷が残ってしまい、それがパフォーマーとしてのキャリアを終わらせることにつながった。しかしながらソングライターとしての活動は続き、スペシャルティ・レコードで、そして1954年以降は、チェス・レコードインペリアル・レコード下で曲を書き、レコーディングを続けた。

1961年、既にメイフィールドの楽曲2曲をレコーディングしていたレイ・チャールズは、ソングライターとしてのメイフィールドの才能を評価し、新たに"Hit the Road Jack"を取り上げた。そしてレイは、彼と専属ソングライター契約を締結し、また自身のタンジェリン・レコードに彼をアーティストとして迎え入れた[10]。メイフィールドはこの後レイのために"Hide nor Hair"、"At the Club"、"Danger Zone"、"But on the Other Hand, Baby"などの楽曲を書き[6]、レイは17曲のメイフィールドの楽曲をレコーディングしたのだった[4][11][12]。また、メイフィールドはタンジェリンのアーティストとしてはレイのプロデュースの下、1962年から1967年の間にシングルを12枚リリース。その中の1曲、"River's Invitation"のリメイクは1963年にBillboard Hot 100に食い込み、R&Bチャートで25位を記録している[13]。シングル曲を中心としたアルバムも同レーベルから2枚リリースされている。

1970年代初頭のRCAにおけるレコーディングの後、メイフィールドは短期間ながらアトランティック・レコードと契約を交わし、ソウル/ブルース・アーティストのジョニー・"ギター"・ワトソンが彼のためにR&B曲"I Don't Want to Be the President"をプロデュースした。この曲は1974年に5週間チャート入りし、64位を記録する小ヒットとなった[14][15]

1980年代初頭、イーストベイ地域に住むメイフィールドをベイエリアのキーボード奏者、マーク・ナフタリンが発見し、レコーディングとマリン郡とイーストベイ地区のライブハウスにおけるライヴに彼を誘った[16]。この活動を通じた露出がオランダのタイムレス・レコードのためのスタジオ・レコーディングにつながった。彼はフィリップ・ウォーカーのブルース・バンドとアルバム「Hit the Road Again」をレコーディングし、1983年にリリースした[17]。ナフタリンは後になって、メイフィールドのパフォーマンスやB.B.キング、レイ・チャールズの証言を含む映像ドキュメンタリー「Percy Mayfield: Poet Laureate of the Blues」をプロデュースしている[12][18][19]。ナフタリンとのレコーディングの一部はアルバム「Percy Mayfield Live」として没後1992年にリリースされている[12][20]

私生活

メイフィールドは生涯に3回結婚している。最初の妻については、素性は明らかになっていない。2番目の妻の名前はウィリー・メイ・アトラス・メイフィールドである。3番目の妻の名前はティナ・メイフィールド(出生時の名前はEarnestine Jermany、1929年10月17日   2006年12月14日)で彼女もブルース・ミュージシャンだった。彼は彼女が1972年にロサンゼルスに移住したのを機に共演するようになり、1984年に結婚した。しかしその年、彼は他界している[21]

パーシー・メイフィールドにはパメラという名前の子供が一人いる。

パーシー・メイフィールドは1984年8月11日、ロサンゼルスの自宅にて心臓発作で他界した。64歳の誕生日の前日のことであった[3][22]。彼の葬儀では、リトル・リチャードが“Thank You, Jesus”と“Swing Low, Sweet Chariot”を歌っている[12]。彼はカリフォルニア州イングルウッドのイングルウッド公園墓地に埋葬されている[9]

ディスコグラフィ

脚注

外部リンク

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