パーヴェル・ミリュコーフ
ロシアの政治家
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歴史学者として
建築家の家に生まれ[1]、モスクワ大学の歴史・言語学部に入学し、ヴァシリー・クリュチェフスキーのもとでロシア史を学んだ[2]。学費を賄うために、掛け持ちで家庭教師をする必要があったという[3]。
モスクワ大学で専任講師となったが[4]、自由主義的な社会活動を行ったため、当局から圧迫を受け、1895年に教職を解雇された[5]。
さらに、1900年2月に社会思想家ピョートル・ラヴロフの追悼集会で司会をしたため、半年間投獄された[6]。ミリュコーフは著書『ロシア文化史概論』の第3巻を投獄中に脱稿している[6]。釈放された後、アメリカに渡りシカゴ大学教授を務めた[7]。ロンドンに滞在したときは、ラムゼイ・マクドナルドやピョートル・クロポトキンと会って話し、さらに、ウラジーミル・レーニンと今後のロシアについて話し合ったという[8]。
歴史学者としては、コンスタンチン・カヴェーリン(w:Konstantin Kavelin)とボリス・チチェーリン(w:Boris Chicherin)らの思想の研究をしていた[4]。さらに、チチェーリンらによる「国家学派」(19世紀ロシア歴史学の中心となった学派)を継承しつつも、これにオーギュスト・コント、ハーバート・スペンサーの社会学理論を取り入れ、独自の文化的歴史考証を行った。
カデット結成
ダーダネルスのミリュコーフ
「愚行か?裏切りか?」
第四国会では、政府の無能無策ぶりに批判が集中し、1915年立憲民主党は、10月17日同盟(十月党、オクチャブリスト)、進歩党などと「進歩ブロック」を結成し全議員の約4分の3を押さえた[15]。進歩ブロックは、皇帝が恣意的に任命した内閣ではなく「国会の信頼を得た内閣」を求めるようになった[15]。
1916年、立憲民主党は正式に政府と対決する方針を採択し、11月国会が再開された[16]。ミリュコーフは、ボリス・スチュルメル首相、そしてラスプーチンを激しく非難する爆弾演説を行った[16]。ミリュコーフは政府を攻撃する中で「これは愚かさか、または裏切りか?」と繰り返すと、議員たちは「愚行だ!」「裏切りだ!」「両方だ!!」と叫んだと伝えられている[16]。ミリュコーフ演説は内閣総辞職を要求し終わった[16]。
ミリュコーフの政府弾劾演説の効果は絶大であった[16]。政府は演説の新聞掲載を禁止したが、この処置に意味はなく、数百万ものコピーが国内はもとより前線の兵士たち流布する結果に終わった[16]。こうしてミリュコーフの演説は、革命的熱狂をロシア国内の諸勢力に巻き起こし、革命の実現に大きな役割を果たしたとされる[16]。
臨時政府樹立
ミリュコーフ覚書
外相としてミリュコーフは、いかなる犠牲を払ってでも平和を求める世論に対しては、断固として反対した[19]。1917年4月20日に、臨時政府は連合国に書簡(いわゆるミリュコーフ通牒)を送った[19]。この中でロシアは連合国側で戦争を継続することを約束した[19]。
(…)旧体制下の政府は、戦争の解放的性格、国家間の友好的共存のための確固たる基盤の確立、被抑圧民族の民族自決といった理念を理解し、共有する能力を持ち合わせていなかった。しかし、解放されたロシアは今や、現代の主要民主主義国が理解できる言葉で語ることができ、同盟国の声に加わることを切望している。自由民主主義の新たな精神に満ちた臨時政府の宣言は、革命によってロシアが連合国の共通の闘争において何らかの怠慢を被ったという憶測を少しも正当化するものではない。むしろ、国民一人ひとりが共有する共通の責任に対する理解が深まったことで、世界大戦を決定的な勝利へと導こうとする国民全体の願望は、より一層強固なものとなった。この努力は、すべての人に関わる喫緊の課題、すなわち我が国に侵攻した敵を駆逐するという課題に集中しているため、ますます活発化している。既に発表された文書にも明記されているように、暫定政府は、自国の権利を守りつつ、同盟国に対する義務をあらゆる面で遵守していくことは明白である。
「暫定政府は、同盟国と完全に一致した形で、今回の戦争が勝利に終わるという確固たる確信を持ち続け、この戦争によって生じた諸問題が、永続的な平和の確固たる基盤となる形で解決されること、そして、同様の願望に突き動かされた主要民主主義国が、将来の流血の紛争を防ぐために不可欠な保証と制裁を得る手段を見出すことを、絶対的に確信している。」[20]
連合国の勝利に終わるまで戦争を遂行するというミリュコーフの決定は、厭戦気分に満ちたロシア国民の怒りを買う結果となった[19]。ペトログラードの労働者、兵士たちはデモを行い、ミリュコーフとグチコフ陸海軍大臣は辞任を余儀なくされた[19](四月危機)。
十月革命後

1917年10月、十月革命によってボリシェヴィキが権力を掌握し、ソビエト政権が樹立されると、ミリュコーフはペトログラードから脱出した[21]。以後、南ロシアに拠点を移し、1918年から国内戦が始まると、白軍(白衛軍、反革命運動)側の指導者となった[22]。
その後、ロンドンに亡命し、ロシア解放委員会を設立して週刊紙「新ロシア」を発行するなど、イギリスから白軍を支援しようとした[23]。
さらにパリに移り、1921年から1940年にかけて、編集長としてロシア語新聞「最新ニュース」の発行に携わった[24]。パリでは社会革命党、人民社会党、農民ロシアといった組織の亡命者と連携して反ボリシェビキ勢力の結集を図ったが、上手く行かなかった[25]。
ミリュコーフを狙ってしばしば暗殺未遂事件が起きたが、ミリュコーフ自身は辛くもそれを逃れた。ミリュコーフ暗殺未遂事件の中には、『ロリータ』の作者である小説家ナボコフの父、ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフがミリュコーフを庇おうとして殺害された一件もあった[24]。
1930年代にはふたたび、歴史学者として研究を始めた[26]。
主な著作
『ロシア文化史概論』 『第二次ロシア革命史』 『転機に立つロシア』 『回想録』