ヒロキ映画

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ヒロキ映画株式会社(ヒロキえいが)は、かつて存在した日本の映画製作配給会社である[1][2][3][4][5][6]。1964年(昭和39年)8月、周宏允が東京都港区に設立した[2][3]。1962年(昭和37年)に閉館した東京都豊島区映画館大塚ヒロキ映画劇場(おおつかヒロキえいがげきじょう)を前身とする[2][7][8][9][10][11]

市場情報 消滅
本社所在地 日本の旗 日本
105-0021
東京都港区新橋2丁目6番4号
設立 1964年8月
概要 種類, 市場情報 ...
ヒロキ映画株式会社
Hiroki Movie Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 消滅
本社所在地 日本の旗 日本
105-0021
東京都港区新橋2丁目6番4号
設立 1964年8月
業種 サービス業
事業内容 映画製作配給
代表者 代表取締役社長 長崎エイ
資本金 500万円
関係する人物 五代儀弘光
中村清美
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沿革

概要

ヒロキ映画株式会社は、1964年(昭和39年)8月、周宏允が東京都港区新橋2丁目6番地に設立した企業である[2][3]。製作会社ヒロキプロダクションとして、鷲尾飛天丸の日本シネマと共同で『制服の女豹』(監督松浦潤)を製作、同年12月1日に同作を配給して公開したのが第1作である[2][3][5][6][12][13]。同作の企画者として中村清美がクレジットされているが[5][6][12][13]、中村は、同社の前身である大塚ヒロキ映画劇場(経営・長崎エイ、豊島区西巣鴨2丁目2080番地)の支配人であった[7]。大塚ヒロキ映画劇場は、同社の設立からさかのぼる2年前、1962年(昭和37年)1月18日、午後11時20分に同館スクリーン裏のボイラー室から出火して全焼している[7]。同館は1956年(昭和31年)に開館したばかりであったが、再建されずに閉館した[7][8][9][11]。同社の代表取締役には、同館を経営していた長崎エイ、取締役には中村清美、五代儀弘光が就任した[2]田中純一郎は、同社を設立したのは「周宏允」であるとするが[3]、『映画年鑑』の同社の項目には表記は見られない[2]

第1作公開の4か月後の1965年(昭和40年)4月、大蔵映画成人映画、いわゆるピンク映画の興行網「オーピーチェーン」を提唱、上野パーク劇場台東区上野2丁目)、カジバシ座中央区八重洲2丁目)、目黒ライオン座(現在の目黒シネマ品川区上大崎2丁目)、池袋シネマセレサ(現在のシネマロサ2豊島区西池袋1丁目)、横浜東亜映画劇場横浜市中区曙町1丁目)、大宮大蔵劇場(のちの大宮オークラ劇場、当時・大宮市宮町1丁目)、立石金竜座葛飾区立石7丁目)、市川日活館(のちの市川オークラ劇場市川市市川1丁目6番19号)、笹塚パール座渋谷区笹塚)の8館がこれに参加、同社および日本シネマフィルム葵映画関東ムービー配給社関東映配等が製作した作品を大蔵映画が配給し、同月第1週からこれらの作品の上映を開始した[1]。同年4月に公開された『異常者』(監督松浦潤)、同年5月に公開された『痴情の系図』(同)がこれにあたる[1][5][6][12]

同社の映画製作・配給活動については、1966年(昭和41年)2月に公開された『女の秘密』(監督小倉泰美)以降、見当たらないが[5][6][12]、同年10月までの情報が掲載されている『映画年鑑 1967』には、同社の詳細情報が掲載されている[2]。前述の中村清美は、弘城興業社映画部が製作・配給、同年3月5日に公開されたドキュメンタリー映画血と涙と墓場』(監督伊勢長之助)のクレジットに「企画・取材」としてその名が記されている[13]。取締役を務めた五代儀弘光は、『好色あんま日記』(監督砂山義達)、『尼僧の門』(監督南川洋)に「製作」としてクレジットされたが、以降の活動は不明である[14]

活動期間は短かったが、東宝出身の照明技師大石弘一[15][16]が『好色あんま日記』で技師昇進しており、のちに高竜也の名で小説家に転向した池田正一が、『好色あんま日記』以降、同社で9作の脚本を書いている[17][18]。『好色あんま日記』の監督としてクレジットされた「砂山義達」[19]は、武田有生(1932年 - )の変名であり、同作は武田の第1作にあたる[20][21]。1960年代末から1970年代にかけてのテレビ映画音響効果で知られる協立音響[22]が「協立音響効果グループ」(共立効果グループ)として、『好色あんま日記』、『尼僧の門』、『制服の転落』(監督藤田尚)の3作に参加している[23]。『女の秘密』を監督した小倉泰美は日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)出身の映画監督で、同作は小倉が最初に手がけたピンク映画であった[24]。「月森功」[25]小林悟の変名であり[26]、小林は同社では小林名義では作品を発表していないが[27]、月森名義で監督した『めかけ芸者』の製作会社を「KOBAプロダクション」とし[6]スコープ・サイズについての表示を「コバプロスコープ」とした[28]。監督としてクレジットされた松浦潤[29]、藤田尚[30]、南川洋[31]についてのフィルモグラフィ以外の詳細は不明である。

同社が製作あるいは配給した作品のうち、東京国立近代美術館フィルムセンターには、『異常者』のみが所蔵されている[4]。同社の入居した甘粕ビルは、近辺のビルとともに解体され、2012年(平成24年)1月20日、跡地に新橋アイマークビルが竣工した[32][33][34]

企業データ

  • 社名 : ヒロキ映画株式会社[2]
  • 所在地 : 東京都港区新橋2丁目6番4号[2]、甘粕ビル(解体後は現在の新橋アイマークビル、2012年1月竣工)[32][33]
    北緯35度40分4秒 東経139度45分25秒
  • 代表取締役社長 : 長崎エイ[2]
    • 取締役 : 中村清美、五代儀弘光
  • 事業内容 : 映画製作配給
  • 資本金 : 800万円(1966年[2]
  • 設立 : 1964年8月[2][3]

おもなフィルモグラフィ

すべて「配給」あるいは「製作」であり、特筆しないものはすべて「製作」であり、配給は大蔵映画である[4][5][6][12][18]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[4]

  • 制服の女豹 : 企画中村清美、監督松浦潤、主演南たまき、製作日本シネマ・ヒロキプロダクション、1964年12月1日公開(成人映画・映倫番号 13759)
  • 異常者 : 企画中村清美、監督松浦潤、主演水島英子、1965年4月公開(成人映画・映倫番号 13934) - 製作、85分の上映用ポジプリントをNFCが所蔵[4]
  • 痴情の系図 : 監督松浦潤、主演香野信濃子、1965年5月公開(成人映画・映倫番号 13977)
  • 汚された肌 : 監督藤田尚、主演峰あけみ、製作IOFプロダクション、1965年6月公開(成人映画・映倫番号 14028) - 配給[6]
  • 好色あんま日記 : 製作五代儀弘光、監督砂山義達、脚本池田正一、主演左京ミチ子、製作大和フィルム[5][6](TRSとも[18])、1965年7月20日公開(成人映画・映倫番号 14063) - 配給[6]
  • 裸の世代 : 監督月森功、脚本池田正一、製作TRS(大和フィルムとも[5])、1965年8月31日公開(成人映画・映倫番号 14106) - 配給[18]
  • 憎い肌 : 監督藤田尚、脚本池田正一、主演内田高子、製作IOFプロダクション、1965年9月14日公開(成人映画・映倫番号 14101) - 配給[6][12]
  • 女の砂丘 : 監督藤田尚、脚本池田正一、主演内田高子、製作IOFプロダクション、1965年10月12日公開(成人映画・映倫番号 14169) - 配給[6][12]
  • めかけ芸者 : 監督月森功、脚本池田正一、主演星夏子、製作KOBAプロダクション、1965年10月19日公開(成人映画・映倫番号 14189) - 配給[6]
  • 尼僧の門 : 製作五代儀弘光、監督南川洋、脚本池田正一、主演中島京子、製作大和フィルム、1965年11月6日公開(成人映画・映倫番号 14276) - 配給[6]
  • 制服の転落 : 監督藤田尚、脚本池田正一、主演岡本弘子、製作IOFプロダクション、1965年12月14日公開(成人映画・映倫番号 14314) - 配給[6]
  • 番頭お色気日記 : 監督藤田尚、脚本池田正一、主演西朱実・峰あけみ、製作IOFプロダクション、1966年1月5日公開(成人映画・映倫番号 14361) - 配給[6]
  • 『女の秘密』 : 監督小倉泰美、脚本坂本景・池田正一、主演橘桂子、1966年2月公開(成人映画・映倫番号 14356)

大塚ヒロキ映画劇場

1958年(昭和33年)7月1日付チラシ。

大塚ヒロキ映画劇場(おおつかヒロキえいがげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[7][8][9][10][11]。1956年(昭和31年)、豊島区西巣鴨2丁目の大塚駅南口駅前に開館、洋画上映館であったが[7][8][9][11]、1962年(昭和37年)1月18日、火災により全焼、閉館した[7]。『カラマゾフの兄弟』(監督リチャード・ブルックス、日本公開1958年2月28日[35])と『悪の決算フランス語版』(監督イヴ・シャンピ、日本公開1955年10月18日[36])の二本立が「55円」の均一料金(当時)で上映されたときのチラシが残っている(右写真)[37]

Goo地図の航空写真によれば、1963年(昭和38年)の時点では跡地は更地であったが[38]Yahoo!ロコによれば跡地の現況はパチンコ店「サンドラ大塚店」である[39]

データ

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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