ビンセンツォ・ペルージャ
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ビンセンツォ・ペルージャ(伊: Vincenzo Peruggia、1881年10月8日 - 1925年10月8日)はイタリアの装飾家。「20世紀最大の美術品窃盗」と評された1911年のルーブル美術館でのモナ・リザ盗難事件の犯人として知られる。盗んだ『モナ・リザ』を2年間自宅アパートに隠した後、イタリアに運び込んで売却を試みたが足がつき、最終的に逮捕され、絵画は回収された。
裁判においてペルージャは愛国心から犯行を起こしたと主張し、これは認められ寛大な温情判決が下った。しかし、金銭的な動機も指摘されている。短期間で刑務所から釈放された後は第一次世界大戦に従軍し、戦後は再びフランスに戻った。出生名のピエトロを名乗ってパリで服飾家として働き、結婚して娘にも恵まれたが、1925年、44歳の誕生日に心臓発作により亡くなった。
日本語のカタカナ表記ではイタリア語の発音により近いヴィンチェンツォ・ペルッジャとすることもある。本項では以下、ペルージャの表記を用いる。
出生
モナ・リザ盗難事件

事件前
1908年にパリに移住し、短期間だがルーヴル美術館にて絵画の清掃や額装を担当する業員として働いた[2]。 この作業の中にはレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』のものを含む、館内の一部の美術品で設置されていた頑丈なケースの製作もあった。ペルージャは、『モナ・リザ』の箱型の額縁の製作に携わっていた可能性が高く、そのため、開け方を知っており、数分で取り出すことができたと考えられている。事件発生後、学芸員が『モナ・リザ』に関わった人間をリストアップした際には、ペルージャの名前も記録されていた[3]。
また、当時のルーヴル美術館は警備が手薄で、入場は無料であった[3]。
犯行
1911年、ペルージャは「20世紀最大の美術品窃盗」と評される事件を引き起こした。 後のペルージャ自身の供述によれば、1911年8月21日(月曜日)、午前7時頃に社員通用口から館内に侵入した。この時、彼は職員が着ることになっていた白色のスモックを身につけており、怪しまれずに行動できた[4]。 この日は夏季休暇中の週に一度の休館日であったために館内はほぼ無人であり、静寂な朝であった[3]。
ペルージャは『モナ・リザ』が展示されていたサロン・カレが無人なのを確認すると、壁に固定されていた4本の鉄のペグから絵画を外し、近くの業務用階段に持ち運んだ。そこで保護ケースとベアルン伯爵夫人寄贈の豪華な額縁を取り外すと、不要なものは階段の踊り場に置かれていた学生作品の裏に隠した。 その後、ペルージャはスモックを脱ぐと、それで『モナ・リザ』のキャンバスを包んで脇に抱え、入ってきた時と同様に通用口から出ていった。 一部の報道によれば、ペルージャはスモックを着用したまま、その中に隠して運び出したとされているが、これは不可能である。彼の身長はわずか160cmなのに対し、『モナ・リザ』は約53cm×77cmのサイズで衣服内に収めて移動することはできない[5][6]。 犯行中は鍵のかかった業務用ドアに閉じ込められるトラブルもあったが、彼を従業員だと勘違いした配管工が扉を開けたことで脱出できた[3]。バスに乗って移動、自宅アパートに帰ってきたペルージャは自室に絵画を隠した[7]。その後、遅刻する形ながら何食わぬ顔でその日の仕事場に出て来ている[8]。
犯行の発覚と捜査

『モナ・リザ』の盗難が発覚したのは翌日のことであった。模写のため美術館を訪れた画家ルイ・ベローが最初に気づいた[3]。当時は写真撮影のためにカメラマンが写真部に美術品を自由に移動させることも出来たので、館内にあると考えられたが見つからず、警察に連絡がなされたのは正午過ぎとなった。 当日、館長は休暇中で急ぎ電報が打たれたが、館長はいたずらだと思って対応をとらなかった[8]。館長は「『モナ・リザ』を盗む? ノートルダム大聖堂の塔を盗むようなものだろう」と豪語していた[3]。この館長テオフィール・オモルや事件時の警備責任者・盗難区域の管理責任者は解任される。事件時、美術品行政の担当大臣も不在にしていて、「ルーヴルが炎上するか、ジョコンダ(『モナ・リザ』のフランス名)が盗まれない限り電話してくるな」と命じていた[3]。 少なくとも60人の警官が動員されて館内を捜査し、捜査責任者は「盗難は休館日に発生したと見られる。出入りした者は把握済みで、おそらく2,3日もあれば解決するだろう」と自信を見せていた[3]。木の板に描かれ、それなりの大きさもあるため、当初は館内のどこかに隠されていると考えられていた。 警察の捜査では出港予定の客船の乗客全員が捜査対象となり、またニューヨークにおいても別の船が捜査を受けた[3]。一連の捜査の中では画家のパブロ・ピカソや詩人のギヨーム・アポリネールが逮捕されもした[9][10]。1907年に別件でジェリ・ピエレという人物が警備の薄い部屋から2点ほど小型の彫像をくすね、交友のあったアポリネールに託し、アポリネールはピカソに売っていた為である[8]。騒ぎが大きくなるに連れ、ルーブルの警備が杜撰であったことやそれまでにも紛失・盗難が起きていたことが知られてきたため、ピエレは自身の所蔵する窃盗品に関する話を手紙を新聞社に送り、いち早く逃亡した[8]。これをもとにした新聞記事に自身の受け取った美術品があがっていたことから、アポリネールは厄介払いをしようと彫像を新聞社に持ち込んだが、結局、警察の知るところとなり、アポリネールついでピカソが逮捕されるに至った[8]。
国家憲兵隊は美術館の全常勤職員を取り調べた後、1911年9月からは煉瓦工や装飾家、また臨時雇用者を含む外部の作業員に対しても聞き取りを開始した。この対象者の中にはペルージャもおり、警察から出頭要請を受けたが、2度に渡って彼はこれを無視した。そこで捜査員は彼のアパートに直接赴いて聞き取りを2回行ったが、彼が主要容疑者とみなされることはなかった[11]。この時、捜査員は絵画が隙間に隠されていたテーブルで調書を書いていたが、それに気づくことはなく、ペルージャの説明を信じた[10][3]。 予審判事は学芸員の指摘を踏まえてガラス職人を第一容疑者として捜査するように警察に命令していたが、彼らはこれを無視していた[3]。
ペルージャの犯行には実はミスがあり、彼は絵画を固定するガラスに親指の指紋を残していた。さらに彼には2回の逮捕歴があったために、指紋や顔写真の情報が警察に残っていた。また、警察はペルージャが絵画の保護ガラスの製作を手伝っていたこと、犯行日時点で既に働いていなかったことも把握していた。 美術館の清掃員から学芸員まで事件時にいた全従業員257人が指紋採取を受けたがペルージャは受けなかった。本来であれば、彼の名前や現場の指紋を過去の警察記録と照合させるべきであったが、警察は対象リストに追加することを失念していた[3]。
犯行発覚から数日経つと、巷には憶測も流れ出した。ある新聞は犯行が「情熱的な犯罪」であったと憶測を飛ばし、またある新聞はジョコンダにインタビューしたという風刺記事を書き、アルセーヌ・ルパンが関与したなど、映画や歌はこの出来事をからかった[3]。
この事件報道が数百万部の売上につながると知った新聞各社は競って情報提供に対して懸賞金を布告し、2年以上に渡って虚偽情報が警察や報道機関に送られた[3]。これにより、美術愛好家でもない人々にもモナリザの絵が知られるようになった[8]。
逮捕と回収


絵画を自宅アパートのトランクに2年間隠した後、ペルージャはイタリア紙の骨董商の広告を見て、絵画を持って列車でイタリアへと帰った[3]。 しばらくはフィレンツェの自宅アパートに保管していたが、やがて持て余し、フィレンツェの画廊オーナーであるアルフレード・ジェーリにレオナルド・Vという偽名で連絡を取った[12]。 ジェーリはウフィツィ美術館の館長ジョヴァンニ・ポッジを呼んで絵画の鑑定を依頼し、ポッジは本物と断定した。ジェーリとポッジは安全のため絵画を保護すると警察に通報し、1913年12月12日、ホテルにいたペルージャを逮捕させた[7]。
『モナ・リザ』はルーヴル美術館に返還されるが、その前にフィレンツェを皮切りにローマ、ミラノとイタリア各地で巡回展示が行われ、地元紙ではそのイタリア帰還を喜ぶ見出しが踊った。どこでも混雑を招いたが、ローマではあまりに人が押しかけるため、ファルネーゼ宮殿の窓に掲げられることになった[8]。1913年12月31日、返還された『モナ・リザ』がパリのリヨン駅に到着した。250人のカメラマン、政府僚を含め返還を喜ぶ大勢の人々が駅に集まった[8]。モナ・リザ』は盗難以前より著名な作品であったが、この事件におけるメディアの扇動や警察による大規模な捜査によってさらに大衆の関心を集め、世界的によく知られる作品の1つへと押し上げた[13][14][15][3]。 ニューヨーク・タイムズ紙は「フィレンツェ人、『モナ・リザ』を巡り暴動。盗まれた絵画を見るため、3万人の群衆が警察を押しのけ突進」という見出しを掲げた[3][16]。
動機と裁判
ペルージャの犯行動機については大きく2つの説がある。
ペルージャ自身が供述した犯行動機は愛国心であった。ナポレオンによってイタリアから盗まれた絵画を故郷に取り戻したかったというものである[7]。彼はルーヴル美術館に勤めることになって、いかに多くのイタリア美術品がナポレオンに略奪されたかを知ったという[17]。ただし、『モナ・リザ』がフランスに渡ったのは16世紀にダ・ヴィンチ自身がフランス王フランソワ1世の招きに応じてフランスを訪れた際に持参したからである。ナポレオンの略奪とは無関係な作品であり、ペルージャはこのことを知らなかったと考えられている。
もう1つの説は金銭的動機である。専門家は、もしペルージャの動機が愛国心であるならば、絵画を売却して利益を得ようとはせず、イタリアの美術館に寄贈したはずだと指摘している[18]。このことは事件から4ヶ月後の1911年12月22日にペルージャが父に宛てた手紙からも伺える。この手紙においてパリのことを「私が財産を築く場所、一発で手に入るんだ」と書いている[19]。翌年にも「あなたが長生きし、あなたの息子があなたと私達家族全員のために実現しようとしている褒美を享受できるよう、私は誓う」と書いている[20][21]。
結果としてこの窃盗事件でペルージャが得られた利益は一切なかった。ホテル代を支払うことさえできなかった[3]。 もし、彼が金銭的利益を求めるのであれば、ルーヴルから140カラットのダイヤモンドを盗んだり、金製の品物を盗んで溶かして売ってしまった方が確実で、捕まることすら無かったであろうと考えられる[3]。 しかし、金銭欲が彼の頭の中にあったのも確実であり、犯行前に残した彼のメモにはジョン・ロックフェラーやアンドリュー・カーネギーといった億万長者の名前が記されていた。裁判で明かされた事実としては『モナ・リザ』の売却を求めてロンドンに渡り[10]、著名な画商ジョゼフ・デュヴィーンにろくに相手にされず嘲笑されたことがわかっている[22]。
異説として、後年にアメリカのサタデー・イブニング・ポスト誌が報じたヴァルフィエルノ黒幕説がある。1932年に同誌が報じたところ、この盗難事件はエドゥアルド・デ・ヴァルフィエルノという詐欺師がペルージャに行わせたのが真相だとし、ヴァルフィエルノは贋作者イヴ・ショードロンに『モナ・リザ』の複製作成を依頼し、盗難後に複製画の売却で利益を得ようと企んでいたという。この逸話は記事を書いたジャーナリストのカール・デッカーが1913年からヴァルフィエルノ本人から聞いたものだとしているが、他にこの説の正しさを裏付ける情報源はない[23]。
裁判においては、判事は愛国的動機というペルージャの主張を一定程度認めて、1年15日の懲役という寛大な判決を下した。イタリアでは偉大な愛国者として称賛され、控訴審を経て最終的には7ヶ月の服役で済んだ[7]。 裁判ではペルージャが精神疾患を抱えているという主張もなされた。1914年5月24日に着任した裁判所付き精神科医のパオロ・アマルディは、「木に2羽の鳥がいる。猟師がそのうちの1羽を撃ったら、何羽残るか?」というなぞなぞを出し、ペルージャは「1羽」と答えた。これにアマルディは「もう1羽は驚いて逃げたため、正解は0羽である」とし、「彼は白痴(imbecile)である」と論じた。この結果と世論の圧力から裁判所は情状酌量を認めた[10]。 もっとも、最初はペルージャを熱狂的に讃えた大衆であったが、やがて彼の無能ぶりが知れ渡ると徐々に評価する声は下火となり、当初の大犯罪の首謀者という認識は消えていった。ドナルド・サスーンは著書『モナ・リザになるまで』において、彼を「(ペルージャは)明らかに典型的な敗北者であった」と述べている[22]。
釈放後・晩年
ペルージャは短い服役を終えて刑務所から出所し、第一次世界大戦中はイタリア軍に従軍した。戦時中にはオーストリア=ハンガリー帝国に捕まり、2年間を戦争捕虜として過ごした。 戦後、解放されるとアンヌンチアータ・ロッシと結婚し、娘チェレスティーナ(1924年-2011年)を設けた。また、フランスに戻ると出生名であるピエトロ・ペルージャを名乗って塗装装飾家として働いた[24]。
1925年10月8日、44歳の誕生日に、パリ郊外のサン=モール=デ=フォッセにて心臓発作で急死した[24]。遺体は同地のコンデ墓地に埋葬され、1950年代に遺骨が納骨堂に改葬された。
おそらくピエトロ・ペルージャという名前であったがために、その死はあまり報じられなかった。1947年にビンセンツォ・ペルージャという同姓同名の別人が亡くなった際には誤報が流れた[25]。
大衆文化への影響
ペルージャによるモナリザ盗難事件は長年にわたり書籍や映画、ドラマ、音楽などの題材として取り上げられてきた。最初期の作品としてはドイツのトーキー映画『er Raub der Mona Lisa』(1931年、モナ・リザ窃盗事件)があり、ヴィリー・フォーストがペルージャを演じた[26][27]。 アメリカのCBS放送が製作した連続テレビシリーズ番組『あなたは目撃者』では1956年4月に「The Recovery of the Mona Lisa (December 10, 1913)」(モナ・リザの回収、1913年12月10日)の題で取り上げられ、ヴィト・スコッティがペルージャを演じた。また、スコッティは別のテレビ番組『GE True』においても、本事件の再現ドラマ「The Tenth Mona Lisa」(10番目のモナ・リザ、1963年3月放映)においてペルージャを演じている[28]。 2006年にはテレビミニシリーズとして『The Man Who Stole La Gioconda』(ラ・ジョコンダを盗んだ男)が製作され、アレッサンドロ・プレツィオージがペルージャを演じた[29][30]。 コメディ・セントラルの『ドランク・ヒストリー』では2018年に放送されたエピソードで本事件を扱い、ジャック・ブラックがペルージャを演じた。 2023年に放送された『マードック・ミステリー 〜刑事マードックの捜査ファイル〜』のエピソード「Murdoch and the Mona Lisa」では、ジョナサン・ソウザが演じた[31][32]。 イタリアの作曲家イヴァン・グラツィアーニは1978年に『モナ・リザ』というタイトルの曲を書き、盗難事件に言及している[33]。
2012年3月、パリのオークションハウス「タジャン」を通じてペルージャのマグショット(逮捕時の顔写真)が3,825ユーロで落札された[34][35]。これはオリジナルのゼラチン・シルバー・プリント(123x54mm)であり、写真専門家ジャン=マチュー・マルティーニは手数料を除いて1,500ユーロから1,800ユーロになると鑑定していた。この写真は、身体計測による犯罪者識別システムを構築したことで知られるフランスの警察官僚アルフォンス・ベルティヨンによって1909年に撮影されたものであった[36][37][38]。
2012年夏、ペルージャを愛国者として描いた演劇が彼の故郷であるドゥメンツァで上演された[39]。
2024年パリオリンピックの開会式ではミニオンズが『モナ・リザ』を盗み出すという形で本事件が言及されている[40]。