ピエトロ・イングラオ
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ラツィオ州ラティーナ県レーノラ生まれ[1]。1940年、イタリア共産党に入党[2]。1947年-1957年、党機関紙『ウニタ』編集長[2]。1948年、代議院(下院)議員に当選[2]。1956年、党指導部員に選任された[3]。1968年党国会議員団長、1976年-1979年代議院議長を歴任した[2]。
1966年1月の党第11回大会で壇上から、党内の"異論の公開"提案をおこなった[4]。この発言は指導集団内で議論となり、彼を指導部から外すべきとの意見があったものの、処分されることはなく、指導部にとどまることになった[5]。イングラオは後年の回想で「発言を終えるやいなや、直ちに分かりました。会場は総立ちで拍手していたのです。議長団と指導集団は全員、席に着いたまま動かず、氷のように冷ややかでした。誰一人として私と握手をしませんでした。」「私は、異論の公開の必要性を公然と主張したヨーロッパの(おそらくはその外においても)最初の共産党指導者だったのです。」等と語った[6]。