ピエール・プティ (物理学者)

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プティは、フランス中部のモンリュソンで、地方官吏の家に、4人兄弟の長男として生まれた[1]数学物理学に才能を示したが、1626年に父親の仕事を受け継いだ[2]

両親が亡くなると、職を辞して官職を売却し、1633年パリへと移る。パリでは、国王の技師として登用され、砲兵の軍政官も務めフランス各地の港を巡検、イタリアにも派遣された。その後は、国王の技術・地理学の顧問官や、要塞管理官などの任に当たっている[1][2]

晩年は、パリ郊外のラニー=シュル=マルヌで過ごし、その地で亡くなった[1][2]

業績

1671年にプティが発表した論文"Dissertations académiques sur la nature du froid et du chaud"の扉[4]

パリに出たプティは、マラン・メルセンヌを中心とする学者達の集まりに加わり、エティエンヌ・パスカル、ブレーズ・パスカルルネ・デカルトピエール・ド・フェルマーらと親交があった。プティは、デカルトの哲学に強く共鳴し、一方デカルトは、プティの数学・天文学における才能を高く評価している[2]

科学者としてのプティの仕事は、多岐にわたっている。1646年からパスカル父子と共同で、トリチェリ真空実験の再現実験を行ってその真実性を確認し、新たに追試も実施した[2][5]。また、フランス有数の天文機器の収集家で、自身でも装置を製作しており、特に星の視直径を正確に測定するマイクロメータの発明は、ジョヴァンニ・カッシーニによる惑星自転の発見にも一役買った[2][5]。自身の研究としては、日食月食の観測や予報、彗星の観測などを行い、論文に発表した[1][2]

プティはまた、王立協会で設立当時から幹事を務め、1667年4月4日には外国人初の王立協会フェローの一人に選ばれている[5][3]

国王の顧問官を務めていたプティは、フランスの科学研究を発展させるべく、王立天文台などの国家公認の科学機関の創設を訴えていた。しかし、実際にパリ科学アカデミー設立を推進したのは、財務総監コルベールであって、プティはアカデミーの会員にはなっていない[5]

著作

出典

関連項目

外部リンク

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