ピエール・ラクール
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ボルドーで生まれた。ボルドーの版画家、 アンドレ・ラボー(André Lavau: 1722-1808)の工房で学んだ後、1764年にパリに移り、官立美術学校で新古典主義の画家、ジョゼフ=マリー・ヴィアンに学んだ。1769年のローマ賞のコンクールで2位になり[3]、1772年ころローマを旅した後、ボルドーに戻り、1772年にボルドーの科学・芸術アカデミー(Académie nationale des sciences, belles-lettres et arts de Bordeaux)の準会員に選ばれ、1774年に正会員になった。
フランス革命の間は共和国政府が設立したエコール・サントラル(École centrale)で美術教師をし、革命前から続くボルドーの絵画学校を自費で運営した。
1796年からパリのサロンに出展を始め、その年、芸術アカデミーの準会員に選ばれた。1801年にボルドー美術館を設立し、最初の学芸員になった[4]。1803年にボルドーの絵画学校の教授となり、1804年から亡くなるまで、校長を務めた。ボルドーのロアン宮殿(Palais Rohan)の修復にも貢献した。
ピエール・ラクールに学んだ学生にはピエール=ノラスク・ベルジェレ(Pierre-Nolasque Bergeret: 1782-1863)やジャン・アロー(1786-1864)、ジャン=ブルノ・ガシー(Jean-Bruno Gassies: 1786-1832)らがいた。
1814年にボルドーで亡くなった。同名の息子、ピエール・ラクール2世も画家、版画家になり、ボルドー美術館の学芸員も務めた。