ジャン・アロー
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ボルドーで画家ピエール・ジョセフ・アロー(Pierre-Joseph Alaux)の息子に生まれた。画家になった4人の兄弟の2番目の息子で父親から美術教育を受けた。その後ボルドーの画家ピエール・ラクール(1745-1814)やピエール=ナルシス・ゲラン(1774-1833)から教育を受けた[1]。1807年にパリの官立美術学校に入学した。1808年からローマ賞に応募するが、兄のジャン=フランソワ・アロー(Jean-Francois Alaux: 1783–1858)の大作を手伝うことになり、歴史画でローマ賞を受賞したのは1815年になった。1816年から1820年までローマに留学した。
ローマではミシェル・マルタン・ドロラン(1789-1851やフランソワ=エドゥアール・ピコ (1786- 1868)、レオン・コニエ(1794-1880)や彫刻家のダヴィッド・ダンジェ(1788-1856)とジェームス・プラディエ(1790-1852)、エティエンヌ=ジュール・ラメイ(Étienne-Jules Ramey: 1796-1852)といった芸術家と在ローマ・フランス・アカデミーの同窓で、ドミニク・アングル(1780-1867)の友人になった。
1824年からパリのサロンに出展し、最初に参加した年から1等のメダルを獲得した。7月王政の国王ルイ・フィリップのお気に入りの画家になり、ルーブル美術館の装飾の仕事もした。1828年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受勲し、1841年にレジオンドヌール勲章(オフィシエ)を受勲した。1846年に在ローマ・フランス・アカデミーの校長に任命された[2]。ジャン・アローが校長を務めた時期は、1848年のフランス二月革命の影響でローマが無政府状態になり翌年成立したローマ共和国はフランス軍によって鎮圧され崩壊した不安定な時期で、アローと生徒たちは、一時的にローマからフランスに逃げなければならなかった。1852年に校長の職を引退した。
1864年のパリで亡くなった。