現在のウクライナ西部から中南部のロシア帝国時代のポドリア県(Podolia Governorate)のバルツキー・ウイズド(Baltsky Uyezd)で生まれた。祖父はナポレオン戦争の兵士であった。ロシアでニルスという姓の同時代の人物に反ユダヤ主義的な著作『シオン賢者の議定書』の偽作に関与した神秘思想家のセルゲイ・ニルス(1862-1929)がいて、その弟であるという説がある[2]。
7歳のとき、オデッサに移り、実業学校で学んだ後、1883年からオデッサの美術学校でキリアック・コスタンディ(Kyriak Kostandi)に学んだ[3]。1889年から1890年の間はサンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーでイリヤ・レーピンに学び、「移動派」の展覧会に参加した[4].。レーピンに勧められてオデッサに戻り「南ロシア芸術家協会(Товарищество южнорусских художников)」を設立した。
ユダヤ人女性と結婚し、1906年には文学者のコルネイ・チュコフスキーとともにオデッサで10月に起きたポグロム(ユダヤ人襲撃)で孤児となったユダヤ人の子供たちの救済のために文学や美術の行事に参加した。
ロシア内戦中の1920年にパリに移住した[5]。パリでは小説家のアレクサンドル・クプリーンとイヴァン・ブーニンと友人であり、イヴァン・ブーニンとの間で交わされた100通余りの書簡は後に出版された[2]。