ファニー・ヘッセ
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ファニー・ヘッセ | |
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ファニー・ヘッセ(1883年頃) | |
| 生誕 |
Fanny Angelina Eilshemius 1850年6月22日 ニューヨーク市(アメリカ合衆国) |
| 死没 |
(1934-12-01) 1934年12月1日(84歳没) ドレスデン(ドイツ) |
| 国籍 | ドイツ |
| 職業 | 研究助手、サイエンティフィック・イラストレーター |
| 著名な実績 | 寒天培地の考案 |
| 配偶者 | ヴァルター・ヘッセ(英語版) |
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ファニー・ヘッセ(Fanny Hesse、1850年6月22日 - 1934年12月1日[1])は、寒天培地の発案者として知られる人物である。微生物学者であるヴァルター・ヘッセ(英語版)の妻として研究助手を務め、当時培地として一般的に用いられていたものの、高温下での管理が困難であったゼラチンの代わりに寒天を利用することを考案した。寒天培地は、その後の微生物培養において支配的地位を占めた。出生名はファニー・アンジェリーナ・エイルシェミウス(Fanny Angelina Eilshemius)[2]。
生い立ち
ファニー・アンジェリーナ・エイルシェミウスは、1850年6月22日にニューヨークで生まれた。父のゴットフリート・エイルシェミウス(Gottfried Eilshemius)は裕福な輸入商であった。エイルシェミウス家はオランダ系の家系で、その出自はフリースラントのエムデン近郊である。母はセシル・エリス(Cécile Elise)で、旧姓はロベール(Robert)[1]。セシル・エリスはスイス・ルガーノの出身であり、いとこには画家のルイ=レオポール・ロベールがいた[2]。
一家は10人の子供をもうけたが、うち5人は夭折した。ファニーは長子であり、きょうだいとともにニュージャージー州ノース・アーリントン(英語版)のローレル・ヒル・マナー(Laurel Hill Manor)で育った。彼女は幼少期から母より、妹とともに料理と家事について教わった[1]。15歳でスイス・ヌーシャテルに渡り、フィニッシングスクールでフランス語と家政学を学んだ[2]。
結婚とその後の生活

彼女はニューヨークにて後に夫であり研究上のパートナーともなるヴァルター・ヘッセ(英語版)と出会った。両人を仲介したのはヴァルターの兄弟であるリヒャルト・ヘッセ(Richard Hesse)であった[1][2]。その後、彼女はドイツ訪問中の1872年にも、妹のユージェニー(Eugenie)とともにヴァルターに面会した。2人は1873年に婚約し、1874年にジュネーヴにて結婚式を挙げた[3]。ヴァルターがシュヴァルツェンベルク(英語版)に医師として赴任し、鉱山病の研究を行った関係で、2人はエルツ山地に居住した[1][2]。
ヴァルターは1878年から1879年にかけ、ミュンヘンのマックス・フォン・ペッテンコーファーに師事し、その後1880年代初頭よりベルリンのロベルト・コッホのもとで勤務した[2]。その後、ヴァルターはドレスデン工科大学での勤務にあたってドレスデン郊外のシュトレーレン(英語版)に住居を購入し、夫妻はここに移り住んだ。家族であるリナ(Lina)によれば、ヘッセ家には3人の息子がいた。ファニーと弟のルイス・エイルシェミウス(英語版)はいずれも絵をよく描き、ルイスはその後画家として名声を博した[1]。
ヴァルターは1911年に死去し、ファニーは1917年にシュトレーレンの家を引き払い、子供や家族が暮らすドレスデン市街に移り住んだ。第一次世界大戦中、ニュージャージーにあったエイルシェミウス家の住居が売却されたが、ファニーの相続分は敵国資産として保留された。戦後、彼女は生家の遺産のうちいくらかを受け取ったほか、文官未亡人として年金を受給された。彼女は1934年12月1日に死去した。その後、彼女の住居はドレスデン爆撃により破壊され、ヘッセ家の生前の家財の大半が失われた[1]。彼女が描いた図版や、ヴァルターが執筆した文献のいくらかは、夫妻の孫であり、2人の伝記記事を執筆したヴォルフガング・ヘッセ(Wolfgang Hesse)が保管していた[1][2]。ヴォルフガングはファニーについて、クリスマスには特製プディングを作ってくれた優しい祖母として記述している[2]。
研究上の貢献
研究助手として

ファニーは夫の助手として、培地の準備・研究道具の洗浄・出版物の図版執筆などを手掛けた[3]。彼女は夫の研究内容に精通するようになり、固体培地上の真菌・細菌コロニーを水彩画にて非常に精細に描写した[1][4]。彼女は顕微鏡下で観察したコロニーを成長段階ごとに描き分け、夫の学術誌への投稿に使用するための図版を制作していた[5]。
ファニーは微生物培養のために試験管内部にゼラチンを薄く塗っていたが、この手法では気温の高い日にゼラチンが溶解し、細菌を損なってしまうことが明らかになった[5]。また、寒天を培地として用いることを彼女が提案した当時、ヘッセは夫が行っていた空中浮遊細菌の培養実験も手助けしていた[6]。
寒天培地の発明
1881年当時、ヴァルターはドイツの医師・微生物学者であるロベルト・コッホのもとで勤務していた[7]。コッホやヴァルター・ヘッセは当初ジャガイモの薄片を培地として用いていたが、後にこれでは不十分として、ゼラチン培地での培養に切り替えた[8][9]。しかし、ゼラチン培地には有機体の作用やインキュベーターによる温度変化によって溶解してしまうという問題があった[7]。これに対して、ファニーは高温下でも変質しない寒天を、ゼラチンの代わりに培地として用いることを提案した。寒天は日本で発明されたテングサ由来のゲル化剤であり、日蘭貿易を通じて東インド諸島に導入された。ヘッセ夫妻の知人にはインドネシアに在住する者がおり、彼女は彼らを介して寒天について知ったものと考えられる[9]。ファニーは家庭でも寒天を利用しており、ジャムやゼリーを作るときには気温に左右されない寒天が使いやすいと感じていた。このため、彼女はゼラチン培地の扱いづらさに不満を漏らす夫に対して、寒天を代替として用いることを提案した[1]。
ゼラチンが37°Cで液化するため微生物の培養にあたって不便であったが、寒天は 90°C以上でないと液化しなかった[6]。寒天は微生物によるタンパク質分解や温度変化の影響をほとんど受けず、ヴァルターの研究分野である空中浮遊細菌の培養にも寄与した[1]。また、彼女の提案を背景に考案された寒天培地は、コッホらによる結核菌の培養にあたって重大な寄与を果たした[3][10]。しかし、コッホは結核菌単離に関する1882年の論文において寒天培地の発明におけるヘッセ夫妻の役割について記述しなかった[3]。また、ヘッセ夫妻らも、寒天培地の発明をもととして私利を得ることは不適切なことと考えていた[1]。このような背景もあり、寒天培地はその後の生物学における不可欠な道具のひとつとなったにもかかわらず、ファニーの業績については長らく等閑視されることとなった[2]。
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 Hesse, Wolfgang (1992年). “Walther and Angelina Hesse - Early Contributions to Bacteriology”. American Society for Microbiology. 2025年12月3日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 Nai, Corrado. “Meet the Forgotten Woman Who Revolutionized Microbiology With a Simple Kitchen Staple” (英語). Smithsonian Magazine. 2025年12月3日閲覧。
- 1 2 3 4 Haines, Catharine M. C. (2001-01-01) (英語). International Women in Science: A Biographical Dictionary to 1950. ABC-CLIO. ISBN 9781576070901. https://archive.org/details/internationalwom00hain
- ↑ “Mittheilungen aus dem Kaiserlichen Gesundheitsamte: Mittheilungen aus dem Kaiserlichen Gesundheitsamte, 2.1884” (英語). -: Mittheilungen aus dem Kaiserlichen Gesundheitsamte, 2.1884, -: - -. (1884年). 2024年5月20日閲覧。
- 1 2 The Lancet (2021). "The art of medicine: Past and present women pioneers in biomedical science." The Lancet. 398, 293-295. https://www.thelancet.com/action/showPdf?pii=S0140-6736%2821%2901647-0 .
- 1 2 Mortimer, Philip. “Koch's colonies and the culinary contribution of Fanny Hesse”. Microbiology Today 28: 136–137. https://socgenmicrobiol.org.uk/pubs/micro_today/pdf/080108.pdf.
- 1 2 Hitchens, Arthur Parker; Leikind, Morris C. (1939). “The Introduction of Agar-agar into Bacteriology”. Journal of Bacteriology 37 (5): 485–493. doi:10.1128/jb.37.5.485-493.1939. ISSN 0021-9193. PMC 374482. PMID 16560221. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC374482/.
- ↑ Madigan, M.T., Martinko, J.M., Dunlap, P.V., and Clark, D.P. Brock Biology of Microorganisms, 16th edition. Pearson.
- 1 2 “A Brief History Of Agar – Asian Scientist Magazine”. www.asianscientist.com. 2025年12月3日閲覧。
- ↑ Koch, Robert (10 April 1882). “Die Aetiologie der Tuberculose [The etiology of tuberculosis]” (German). Berliner Klinische Wochenschrift (Berlin Clinical Weekly) 19: 221–230. http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015020075001;view=1up;seq=235. From p. 225: "Die Tuberkelbacillen lassen sich auch noch auf anderen Nährsubstraten kultiviren, wenn letztere ähnliche Eigenschaften wie das erstarrte Blutserum besitzen. So wachsen sie beispielsweise auf einer mit Agar-Agar bereiteten, bei Blutwärme hart bleibenden Gallerte, welche einen Zusatz von Fleischinfus und Pepton erhalten hat." (The tubercule bacilli can also be cultivated on other media, if the latter have properties similar to those of congealed blood serum. Thus they grow, for example, on a gelatinous mass that was prepared with agar-agar, which remains solid at blood temperature, and which has received a supplement of meat broth and peptone.)