ポワティエ家の一員だったフィリップは、アンティオキア公国とトリポリ伯国を治めたノルマン人貴族ボエモン4世(英語版)とエンブリアーコ家(英語版)出身の妻・プレザンス・ド・ジブレ(英語版)の子供であった。
フィリップの従兄弟であり、アンティオキア継承戦争(英語版)でフィリップの父と長年共闘したレーモン・ルーペン(英語版)もまた、レヴォン2世の後継としてキリキア・アルメニア王位を主張していた。レヴォンの娘ザベルの摂政を務めていたバベロンのコスタンディン(英語版)との争いに敗れたアルメニア人有力者たちはアンティオキア公国との同盟を画策し、ボエモン4世に対してザベルの夫となる人物を送るよう要請し、ボエモンはこれに応じフィリップを差し出した。フィリップはボエモンの4男であり、アンティオキア公を継承する見込みはなかったことからアルメニア人たちもこれを受け入れた。また、条件としてフィリップがアルメニア使徒教会に加わることを提示し、ボエモンもこれを受け入れた。
1222年6月、フィリップとザベルの結婚式が行われた。なお、式はアルメニア使徒教会やアルメニア人の慣習に基づいて行われた。
治世の初期、フィリップはルーム・セルジューク朝による攻撃を撃退しアルメニア人に好印象を与えた。しかし、フィリップはラテン系の趣味を持っていたことからそれ以上アルメニア人の人気を集めることができなかった。フィリップはほとんどの時間をアンティオキアで過ごし、フランス人を依怙贔屓した上、アルメニア使徒教会の典礼さえ守らなくなっていき、最終的にアルメニア人は反乱を起こした。
1224年、フィリップは夜間にアンティオキアへ向かっている途中で捕らえられた。アルメニア人たちはフィリップがアルメニアの王冠宝石(英語版)を奪ってアンティオキアに持ち去ろうとしたと主張したのだ。父ボエモンがコスタンディンと交渉する間、フィリップは首都シス(英語版)近郊のパルツェルペルト要塞(英語版)に数か月間投獄された。 しかし交渉は決裂し1225年にフィリップは獄中で毒殺された。ボエモン4世は息子の復習を企てたが、同盟者だったアイユーブ朝がアルメニア側に寝返ったため頓挫した。