レヴォン2世
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| レヴォン2世 Լևոն Բ | |
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在位期間 1198/1199–1219 | |
| 戴冠 |
1198/1199年1月6日 ウィスダム教会 (タルスス) |
| 次代 | イザベル |
キリキア・アルメニアの君主 | |
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在位期間 1187–1198/1199 | |
| 先代 | ルーベン3世 |
| 出生 | 1150年 |
| 死亡 | 1219年5月2日(68–69歳没) |
| 埋葬 |
シス(身体) アクナー修道院 (心臓と内蔵) |
| 王室 | ルーベン家 |
| 父親 | ステファン |
| 母親 | リタ |
| 配偶者 |
イザベル シビュレ |
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子女 ステファニー ザベル | |
| 信仰 | 正教会 |
| 親署 |
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レヴォン2世 (1150 – 1219)[注釈 1]は、ルーベン朝のキリキア・アルメニア侯[4]。1198年または1199年に王として戴冠[7]して以降はキリキア・アルメニア国王レヴォン1世 (レヴォン大帝とも[4])。[注釈 2][4][7] 第3回十字軍に積極的に協力し、物資、食料の提供や現地の案内を行った[3]。

第5代アルメニア侯レヴォン1世の三男ステファンの次男として生まれた[7]。 母はバルバロンと呼ばれる地域の領主センパドの娘リタ[11]。父はビザンツ帝国のキリキア総督アンドロニクス・エウフォルベヌスが開いた宴会に向かっていた途中の[4] 1165年2月7日に殺害された[7]。父の死後、レヴォンは兄のルーベンとともに叔父のもとで暮らした[4][12]。
レヴォン兄弟の父方の叔父であるムレーは1170年にキリキア・アルメニア侯に即位するが、政治の残虐さから多方面で敵を作った結果、1175年にシスの街(現在のコザン)で自らの兵に暗殺された[13]。 その後、アルメニアの有力者たちによってレヴォンの弟がルーベン3世として即位すると、ヘトゥムにあるレヴォンの隠れ家を包囲した[14]。しかし、ボエモンド3世がレヴォンを救うため急行し、逆にルーベン3世を捕らえた[15]。そして1187年にレヴォンが君主の座についた[2]。
治世
1187年、近隣のイスラム勢力であるアレッポとダマスカスとの戦いを余儀なくされたが、敵軍を撤退させることに成功した。この勝利の意味は大きく、イスラムの英雄と呼ばれたサラーフッディーンが十字軍国家の一つエルサレム王国に対して大規模攻勢を仕掛ける中、レヴォンがイスラム軍の一部を引き受けたことで、エルサレム王国の負担が軽減された[16]。
キリキア・アルメニア侯

レヴォンは勇敢かつ博識な君主であった。彼は侯国を拡大し、多くの地域の支配者となった。即位して間もなく、イスラム軍によってキリキアまで攻め入られたが、センナケリブを滅ぼした神のお告げにより、わずかな兵で不信心者の大軍を打ち破った。敵の指揮官は聖ゲオルギウスに殺され、ハガレネス軍も散り散りになった。アルメニア軍は敵を追撃し、多くの富を手に入れた。レヴォンは力を増し、タジク人(アルメニアの歴史家たちがサラセン人、特にセルジューク人を指して使う)を追い、トルコ人を追撃した。イサウリアを占領し、イコニウムまで侵攻した。さらにはヘラクレアを占領し多額の身代金を手に入れた。最後にはカエサリアにまで進軍し、占領の一歩手前まで及んだ。ルーム・セルジューク朝のスルタンと条約を結び、多額の賠償金を手に入れた。キリキアの四方を城と砦で囲み、アグネルと呼ばれる新しい教会を建て、既存の修道院への対応も寛大であった。彼はハンセン病患者にも寛大で、当時人々に避けられ、追放されていた彼らにも生活に必要な物資を提供した。—ヴァフラム(エデッサ): The Rhymed Chronicle of Armenia Minor[17]
戴冠

レヴォンは1198年または1199年に[4] タルススで戴冠した[12]。
アンティオキア継承戦争

この時期、カトオギコ族のヨハネス卿は、王が妻としていたアンティオキアの女性が、不貞について非難されるという情報を聞き、レヴォン王のもとへ向かった。ヨハネスはこの問題を王に私的に伝えた。王は非常に感情的になり、女性の親族を破滅させるよう命じ、その場で殺そうと自らの手で激しく女性を殴った。叔父ヴァサクの息子コスタンディンは瀕死状態でかろうじて逃げ延び、鎖に繋がれてヴァフカに送られた。—セムバト・パラペット: [18]
1210年1月28日から1211年1月27日の間にキプロスで、レヴォンはキプロス王ヒュー1世の異母妹シビュレと結婚した。
晩年

レヴォンは侯として12年、王として22年間国を治めたが、自らの死が近いことを悟り、王国の全貴族の集会でアタンという貴族を摂政兼娘の後見人に任命した。レヴォンは間もなく亡くなり、アグナー修道院に埋葬された。彼の遺体の一部はシスという町に運ばれ、そこに教会が建てられた。—ヴァフラム(エデッサ): The Rhymed Chronicle of Armenia Minor[17]
彼は誰に対しても恨みを持たず、慈悲深く純粋な人物であり、神に祈り、それに従って国を導いた。彼は賢明かつ聡明な人物であり、熟練した騎馬の腕前を持ち、戦いにおいては勇敢で、人間的かつ神聖な慈愛に満ち、生命力に満ち溢れ表情も豊かであった。—セムバト・パラペット: Chronicle[18]