フェ・アラ
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「フェ・アラfe ala」という呼称が史料にみえるのは、『滿文老檔』天命5年1620旧暦3月の条:
ice sunja de hvlame, fe ala i hoton de ilan minggan uksin i cooha tebu ……
(五日、「 fe ala の城に三千の甲兵を置け……」と命令した)
が目下初出とされる。「横の岡」の意の第二の居城「ヘトゥ・アラhetu ala」に対し、第一の居城「フェ・アラfe ala」は「旧い岡」の意とされ、ヌルハチらがヘトゥ・アラに遷居したのちも、旧い岡ことフェ・アラはなお重要な拠点の一つであったことが伺い知れる。[1]
ヌルハチらがヘトゥ・アラに移った後、フェ・アラは「老城」[注 2]と呼ばれたが、ヌルハチの居城がその後ヘトゥ・アラから第三の居城「東京」(現遼陽市)、第四の居城「盛京ムクデン」(現瀋陽市) と遷移するに伴い、「老城」の呼称は次第に専らヘトゥ・アラを指すようになった。[2]
さらに清代になると、第二の居城ヘトゥ・アラが「興京」[注 3]と名づけられ、第四の居城・盛京と並んで「兩京」と呼ばれるようになったことで、「清朝発祥の地」の座をヘトゥ・アラに明け渡した第一の居城フェ・アラは、清の満洲族の間でもすでに遥か昔の言い伝えとなってしまっていた。[2]実際、康熙23年1684に編纂された『盛京通志』の初版本には、巻10の「興京城池」の章に「老城」としてフェ・アラに関する記載がみられるものの、ヌルハチの建業[注 4]から僅か70年ほどしか隔たっていないにも拘らず「建置之年無考」[3](築成時期未詳) と書かれる始末で、太祖ヌルハチ第一の築城であることは忘却の彼方に逐いやられている。[4]
清朝の満洲族にすら閑却されていたフェ・アラはその後、大日本帝国時代に入り、日本人の東洋史家から注目を浴びた。初めて本格的に実地調査を行った建国大学の研究団の一人、稻葉岩吉は、真の「清朝発祥の地」たるフェ・アラを「二道河子舊老城」と命名している。
近年では主に「フェアラ」と「旧老城」という呼称が併用される。[注 5]
