フサイン (サイイド)
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預言者ムハンマドの末裔を称するサイイドの名家の出身で、雲南の開発などで名高いサイイド・アジャッルの三男にあたる。
フサインはまず至元年間の初めにクビライの宿衛(ケシクテイ)に入ってその才能を認められ、1277年(至元14年)にまず兵部郎中の地位を授けられた[1]。1278年(至元15年)には河南等路宣慰使司同知とされ、このころ河南で頻発していた強盗の対策に従事した。フサインはそれまでの武力による鎮圧策を改め、使者を派遣して投降を促した。これを受けてまず来帰した賊2名にフサインは冠巾を与え、既に賊ではなく良民であると認めたことにより、賊の首魁たちも投降するに至ったという[2][1]。その後、1279年(至元16年)6月には中書左丞に任命されて中央の中書省に勤めた[3][4]。
1284年(至元21年)には雲南諸路転運使の地位を授かり、1285年(至元22年)には陝西転運使、1286年(至元23年)には燕南河北道宣慰使司同知・建康路総管、1293年(至元30年)には両浙塩運使を歴任した[1]。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の即位後、1297年(大徳元年)には江東道宣慰使の地位に進み、さらに陝西行台御史中丞を経て、雲南行省右丞として雲南に戻ることとなった[5][1]。
当初、フサインは宗王スンシャンの協力を得られず苦労したが、京師にまで赴いて皇帝(カアン)の聖旨(ジャルリク)を得たことで、それまでの悪政を改めることに着手できるようになったという[1]。例えば、豪民が徭役を避けるために王府の宿衛(ケシクテイ)に入ろうとする傾向があることに対し、フサインは宿衛の規模を3分の2に減らし、余った者たちは全て民戸とし徭役の対象としたとされる[6][1]。
また、サイイド・アジャッルの時代に建設された孔子廟は学校として利用されていたが、収入源である田が後に大徳寺のものとされていた。そこでフサインは田を孔子廟のものに戻し、また諸郡邑に廟学を立てて文学士の教官を置き、雲南における学問の振興に大きく寄与したという[7][8][9]。
またこのころ、広南西路に沙奴という剽悍な酋長がおり、南宋の時代に下賜された金印を有してモンゴルの支配を受け入れていなかった。そこでフサインは使者を派遣して沙奴を招き、丁重な礼儀でもってこれを歓待した。数カ月経ち、沙奴が本拠へ帰ることを請うと、フサインは南宋時代の金印を差し出すよう要求し、沙奴はやむを得ず金印を渡すに至った。フサインが金印を持って入覲すると、クビライは大いに喜んだという[10]。
一方このころ、ビルマのパガン王朝ではシャン人三兄弟によって国王ソウニッが傀儡とされており、このために1299年(大徳3年)にはモンゴル軍によるビルマ出兵が行われるに至った。このようにビルマ情勢は悪化していたが、1301年(大徳5年)にフサインはパガン王朝に使者を派遣し、両国関係の改善に努めている[11]。このフサインの外交は他の史料に見られないものであるが、『元史』緬国伝の末尾で大徳5年10月に緬国(パガン王朝)が入貢したとの記事があることが[12]、フサインの成果であると考えられている[13]。
1304年(大徳8年)には四川行省左丞、ついで江浙行省左丞の地位を務め[14]、クルク・カアン(武宗カイシャン)の即位後の1308年(至大元年)には栄禄大夫・江西行省平章政事の地位を拝命した[15]。しかし1309年(至大2年)には老母のために職を辞し、1310年(至大3年)正月に死去した。死後、1328年(天暦元年)に守徳宣恵敏政功臣・上柱国・雍国公の称号を追贈され、忠簡と諡された[16]。
息子には中慶路ダルガチの地位に至ったボルカン(伯杭)と、湖南道宣慰使の地位に至ったクルク(曲列)らがいた[17]。